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中国名言と株式紀行(小林 章)

第128回 四000年を学ぶ中国名言/「PR上手の弟子がほしかった」

『求や退く、故にこれを進む。由や人を兼ぬ、故にこれを退く(求也退、故進之。由也兼人、故退之)』
                                    出典【『論語』先進篇】
[要旨]教育や指導に於いては、相手の資質に応じてその方針を変えることが大切だということ。消極的な者に対してはその背を押し、積極的すぎる者には敢えてブレーキを踏むような指導の仕方をいう。

前後の全文を示します。
「子路問聞斯行諸。子曰。有父兄在。如之何其聞斯行之。冉有問聞斯行諸。子曰。聞斯行之。公西華曰。由也問聞斯行諸。子曰。有父兄在。求也問聞斯行諸。子曰。聞斯行之。赤也惑。敢問。子曰。求也退。故進之。由也兼人。故退之」
要約すると、以下のようになります。
「子路が尋ねた。善いことを聞いたら、すぐに実行に移すべきでしょうか。師(孔子)が答えられた。父兄がおいでになるのに、尋ねもしないで、自分の一存で実行するのはよろしくないと。
また、冉有が同じく尋ねた。善いことを聞いたら、すぐ実行に移すべきでしょうか。師(孔子)が答えられた。すぐ実行するがよいと。
後日、公西華(赤は公西華の名)が師(孔子)に尋ねた。先生は、善事を聞いたらすぐ実行すべきかどうかについて、由(子路)がお尋ねした時には、父兄がおいでになるのに尋ねてからにしなさい、とお答えになり、求(冉有)がお尋ねした時には、すぐ実行せよ、とお答えになりました。私には、どうも先生のお気持がわかりません。いったい、どちらが先生のご真意なのですか。
師(孔子)は答えられた。求(冉有)はとかく引込み思案だから、尻をたたいてやったし、由(子路)はとかく出過ぎる癖があるから、抑えてやったのだと」

孔子の弟子で、子路(季路ともいう)の姓は仲、名は由、字は子路です。また、冉有(ぜんゆう)の姓は冉、名は求、字は子有です。もうひとり、公西華(こうせいか)の姓は公西、名は赤、字は子華です。

孔子の弟子のなかでは「政事では冉有と季路」といわれた二人です。両者は行政手腕に優れ、実務に精通していました。しかし、二人の性格は大きく異なっていました。
別の箇所で孔子は「子路は誇らしげで、冉有と子貢は和やかであった」とも述べています。また「由(子路)はがさつだ」とも言っています。しかも、子路については「由のような男は、普通の死に方はできまい」と述べています。孔子の予言は当たりました。

また、孔子が言うには「回(顔淵)はまあ理想に近いね。道を楽しんで富みを求めないからよく窮乏する。賜(子貢のこと)は官命を受けなくとも自分で金もうけをして、予想したことはよく当たる。」とも。「徳行の顔淵(顔回)」「言語(弁論の才能)の子貢」と言われています。
私の個人的な感想ですが、孔子の愛弟子評は短評ながら、何故だか大変に的を得ているように思われます。

今回の言葉に関して、前にも、どこかで孔子について述べましたが、孔子は弟子からの同じ意味の質問に対して、聞いた弟子によって、まったく別の答えを返しています。または、答えたり答えなかったりしています。再度答えを促されてようやく答える場合もあります。
こうした相手に応じた、柔軟で変幻自在な対応自体が、孔子のいう「仁」の規範に当たるのではないかと述べたのです。なんとなれば孔子のいう「仁」とは、最大限礼を尽くし相手を思いやり良好な人間関係を作り出し、維持するための作法だからです。
策(むち)を必要とする弟子もあれば、手綱(たづな)を必要とする弟子もある。
こうした弟子に対する、相手を分かった上での十分な配慮、状況に応じてどうアドバイスをすればよいのか、またそのアドバイスがこの弟子にとってどう生きるのか、までも見極められるかが孔子にとってはとても大切に思われたのだと判断できます。

邱永漢先生は、孔子のことを引き合いにだしながら「現代の諸子百家のひとり」を自負されていました。HiQの第121回のところに書いてあります。
恐らく、邱永漢先生は諸子百家のなかでも、いちばん高名な孔子の立場を意識されていたのではないかと感じます。

邱永漢先生は、孔子の時代は「人間関係をどうするか」が最重要のテーマであったが、いまの時代は「経済が分からなければ、人間関係も確立できない時代」だと述べられておられます。

「お金の話ばかりするというけれど、お金の扱い方からお金の儲け方まで、ちゃんとした基礎知識を持っていないと、いまの世の中をスマートに生きて行くことができません。
お金の話をすると、お金にガツガツして生きているように思われがちですが、当今の思想家を勤めようと思ったら、お金の動きに無知というわけには行かないのです。」

邱永漢先生の言葉から、晩年数年にわたって執筆に情熱を傾けられてきたHiQのシリーズにも収められている記述は、ご自身の実践活動の記録でもあるでしょうが、最後の力を振るって誰にも分かりやすいように、ご自身の思想原理を語りつつ、身をもって実験・実践されたものだったことが、あらためて理解されます。

孔子の弟子の一人である子貢の宣伝のおかげで「孔門」の教えが歴代の君主に受け入れられ、2千年以上も国教として命脈を保ってきた、とも邱先生はご指摘されています。

「もしかしたら持つべきはPR上手の弟子かもしれませんね」とは、邱永漢先生ご自身の強いご希望であり、願望であったのではないでしょうか。

孔子の死後、弟子たちは墓のそばに小屋を建てて三年の喪に服しましたが、子貢だけは六年がんばったほどの忠義に厚い人でした。また、顔回のように「一を聞いて十を知る」ほどの天才肌ではありませんでしたが、世才にたけた人でしたから、その後、魯や衛で大夫となり、官を辞してからは『史記』貨殖列伝にも名を連ねるほどの商才を発揮して大富豪になったほどの外交術と理財に通じた人でもありました。

この世の中の変化を読み、理財に活かし、ほどほどの中金持ちのしあわせを説かれた邱永漢先生の偉業は、弟子の子貢のような才能によって、難しい現在をよりよく生きようとする多くの人々の指針(原理原則)として、活かされて行くように思われます。

                            64「PR上手の弟子がほしかった」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/07/12