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中国名言と株式紀行(小林 章)
第120回 四000年を学ぶ中国名言/「大目に見て欲しい孔子伝」
『君は臣を使うに礼を以てす(君使臣以礼)』
出典【『論語』八佾篇】
[要旨]部下を使うにも礼儀を欠いてはいけないということ。
孔子が魯の昭公の後を継いだ定公に仕えた時のことです。
「定公問、君使臣、臣事君、如之何、孔子對曰、君使臣以禮、臣事君以忠[定公問う、君、臣を使い、臣、君に事(つか)うること、これを如何(いかに)。孔子対(こた)えて曰わく、君、臣を使うに礼を以(もっ)てし、臣、君に事うるに忠を以てす]」が前後の全文です。
おおよその対訳は、魯の定公が尋ねられた『君主が家臣を使い、家臣が君主に仕えるにはどのような心がけを持てばよいのであろうか?』これに孔子は答えて申し上げた『君主が家臣を使うには礼節をもって臨み、家臣が君主に仕えるには忠誠をもって臨むことです』
私も度々中国名言の解釈中で指摘している通り、孔子自体は「君臣の別」を明確にして、血縁による固定的支配体制の弊害や君臣隷属関係の非現実性をそれぞれの立場から端的に述べています。
どうして孔子のこうした思想が醸成されてきたのでしょうか。
それは、孔子の生い立ちや孔子の歩んできた道と無関係ではなく、そうした思想との関連を丁寧にひもときつつ、それが孔子の思想形成にどう繋がっていったのかを仔細に検証していく必要がありそうです。
しかし、同時代人ではない孔子の歩みを検証するのはなかなかの困難を伴います。ですが、そこを承知で無謀な獣道にまで分け入ることでなければ謎を解くことは出来ないでしょう。孔子は非凡な思想と行動を備えた人ではあったでしょうが、初めから生来の聖人や君主でもなかったのでしょうから。
少し無謀な試みですが、私なりに孔子の歩みを振り返っておきます。
孔子がまず官途についたのは、孔子28歳の時で、生国魯国で委吏、乗田となり7年程度務めます。
「委吏」とは穀物倉の荷の管理人で「乗田」とは家畜の放牧場の管理者で、孔子が生活のために選んだ職業でした。
しかし、この生活のために就いた小役人の実務経験が、後に請われて中都の宰(地方長官)に就いた時に大いに役に立ったと思われます。
そして、上記の定公が先代の昭公の没して7年の空位時代の後に24代国王に就任しますと、請われて中都の宰(中都という地名の場所の地方長官のような立場)に取り立てられます。孔子52歳の時だといいます。
孔子は既に何人もの弟子を抱え、彼の名声は国内には轟いていたようです。
また、中都では地方長官として短期間に成果を上げ、周りの諸地でも孔子の管理手法が評判になります。なるべく無駄を省きます。そして、当時は民政への配慮が重要で、そうした政策が適切であれば、人心も安定し民も農産に励め、生産が安定しました。
定公は孔子を呼んでその原因を問い質し、孔子も自信を持って持論を堂々と披瀝します。定公は孔子の統治の実績と才能と手腕を見込んで直ぐに司空の職を与えます。「司空」とは、犯罪人と治水や築城築墓などの土木工事の管理者で、当時は治水が重要で、そうした公の土木工事は刑徒(囚人)を動員して行われることがあり両者の職掌は密接に関係していたのでした。司空は国政の副大臣職の重要職位の一つです。
その後、孔子は同席した大国・斉との和議の席での斉側の武力謀略を見破り、その功のために大司寇に抜擢され隣国晋との外交にも尽くします。
軍事・外交政策に於いては、晋との長年の「北方同盟」からの離脱を行います。魯は元々小国ですが、国内の親晋派三桓氏がこれまで要職を占め、大国・晋の権力を背景に魯の君主に武力的圧力を加えて圧迫することを繰り返し政権基盤の不安定要因でした。孔子はその力を削ぎ、取り除くことが魯の内政を安定させるものと考えて、定公に進言して三桓氏の根城殲滅のために実行された武力的制圧も結果的に失敗してしまいます。孔子は少し焦りすぎたのかも知れません。
三桓氏とは魯公室の15代君主・桓公の子孫の孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏の三分家であり魯国政治の要職を占め、実権をたびたび握り、王室を脅かし国政を混乱させてきた元凶ともいえました。
先代の昭公はこの三桓氏粛正クーデターを企てますが、逆に三桓氏の軍事力に屈して国外追放され、亡命先の斉で不甲斐なく生涯を終えます。
実は孔子はこの時、昭公の後を追って斉に亡命しています。この時、孔子は別に重臣でもなく、ただの小役人であったにもかかわらずです。自分にも累が及ぶと思い込み、相当に小心風に吹かれたのかも知れません。孔子は亡命先の斉の首都・臨淄で、偶然に舜時代の音楽と伝えられる韶という曲を聞いたことがあって、3ヶ月もの間すっかりその音楽に心を奪われてしまい肉の味がわからなくなるほどだったというエピソードが残っています。
孔子は魯国の司空や大司寇の執政の要職に就いて僅かに3-4年で、突然官を辞して弟子とともに諸国巡遊の旅に出ます。亡命だとも言われます。最大の庇護者であった定公の政治力が弱まったことが大きな原因です。定公自身も政治への関心が急速に薄れてしまいます。孔子はその姿を見ていられなかったのでしょう。その2-3年後には定公も亡くなります。魯の政治は乱れてしまいます。
また、別の面から理由を探れば、孔子が抜擢された大司寇(または秋官大司寇という)とは良くいえば刑罰を裁く司法長官のような立場で、一般的に言えば法務執行長官のような立場と考えられますが、宰相位でこの官位が問題でもありました。
魯では、さきの三桓氏の中でも特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を分担して務めてきました。
つまり、この大司寇という官位は孔子のような皇族以外の者が就いた前例が無く、孔子自らが提言した三桓氏の根城を壊滅する軍事行動にも失敗し、定公の政治力の衰えで依然有力皇族であった季氏一族を始めとする皇族の恨みを買うことになります。孔子の手腕が強引だと映っていたのかもしれません。こうしたことが用心深かった孔子に官を辞退させ魯から遠ざけることになったようです。
孔子がことさら「君臣の別」を明確に述べ、血縁による固定的支配体制の弊害や君臣隷属関係の非現実性を認めるのは、自身が季氏など三桓氏と呼ばれる皇族による政治支配の弊害を身を以て体験し、苦しめられてきたからでしょう。
だから、孔子は次のように答えるのです。
君主必ずしも君子ならずです。国政の重責を担ってきた皇族達についても同様です。ですから、両者は努めて君子たるべきです。まず君主は臣下には礼を以て接し、また臣下は君主に仕えるのに忠を以て接するならば、執政体制は上手くいくのではないでしょうか。国政が乱れる原因は君主は君主で、臣下は臣下で互いに遵守すべきものがあるのに、これさえ怠るからじゃないのでしょうか。君主は最低限臣下には礼をもって接すべきだし、その上で臣下は忠を以て君主に仕えることが出来るのです。もっと言えば、君主は臣下を選ぶのは当然ですが、臣下の側だって君主を選ぶ権利もあります。君主が「仁や徳」、また最低限「礼」さえ失するようであれば、臣下は辞退して去ることも出来るのですから。
そもそも、こうした思想を孔子が否定するならば、孔子自身皇族の血筋でもないのに魯国の司空や大司寇などという高位高官に就けるはずもなかったのです。
孔子は69歳で13年に及ぶ諸国巡遊と求職位の旅の果てに、故郷・魯国へ戻ります。
自身の体で実感的に体系化した思想と実績とを実際の政治の場で実践することにこだわってきましたが、ついに果たせず帰郷するしかなかったのです。
また、百歩譲って、諸国を巡るうちに孔子の理想に近い政体を実現している国も、本気で孔子の理想に耳を傾けようとする為政者も現れませんでした。聖人にも、仁、徳を尊ぶ為政者にも、善を成そうとする者にすら会うことも希でした。私利のため保身のため、他人を出し抜くことばかりで、その時の情勢によっても心はコロコロ変わる連中ばかりでした。そんな感想を述べています。
帰国した孔子が取り組んだのが弟子の教育とともに魯国の年次ごとに記録された、春秋時代に関する編年体の歴史書である『春秋』の編纂だといわれています。
その内容は、王や諸侯の死亡の記事、戦争や会盟といった外交記事、日食・地震・洪水・蝗害といった自然災害や天変地異に関する記事などが主たるもので、年月日ごとに記された年表風の歴史記録書です。
なぜ孔子が『春秋』のような時事記録的な歴史書の記述に晩年になって取り組んだのか、興味が尽きません。こうした見聞した事実や事件、行事、風習、風土、天候などから何かインスピレーションを得ようとしていたのでしょうか。
いくつかの推測が成り立ちます。
それは、ひとつに「吾少(わか)くして賤し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。(中略)吾試(もち)いられず。故に芸あり」(子罕篇)と『論語』にあるとおり孔子は幼い頃より貧乏で「鄙事」や「芸」に通じていたからではないかと思います。
現代人で貧しさを神聖に捉える人もあるでしょうが、これは孔子の思想になんの助けにもなっていません。勘違いしてはいけないでしょう。
孔子が貧しさから逃れるために、様々な努力を惜しまず、魯国の宰相にまで登りつめ成功したのも、日々の暮らしの貧しさにもかかわらず学問に価値を見いだし弟子・顔回の碩学の姿勢に賞賛を惜しまなかったのも「貧しさ」から距離を取ったからです。
古も今でも、教養・教育・技能習得は「貧しさ」から脱する有力な手段であり技術でありますし、そうした素養を育み備えうる人は、孔子に限らず向上心を普段に慣習化できる技術や癖を身につけてしまうものです。
現代人にも、つい気になると新聞の記事を切り抜きスクラップしていたり、メモ帳に書き留めたりする癖があるように、孔子にも止む終えず生活のために様々な仕事に就いたり、何でも器用にこなすことで、ちょっとした環境の変化にも良く気が付き収拾・整理の癖(よき習慣)が自然に身に付いていたのではないでしょうか。
それとともに、魯の国に生まれ育ち、他国を巡ったことで違う生活習慣や慣行に触れ、逆に自然に生活や活動の目が魯風になっていたことです。
魯は小国で政治基盤が軟弱で不安定な面もありましたが、この小国が中国全土に及ぼした思想史・文化史に果たした役割は意外にも大きかったのです。
魯は古代周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の旧所領で、その伝統が国内に受け継がれており、当時まだ古い礼制がよく残っていました。
この古来の王朝から引き継がれた伝統文化や儀式、風習は、他国の風習や習慣と比較しても良き伝統であり、恐らく孔子には現世に活かし、後世に伝え残すべき善行と映りました。それが孔子の重んじた「詩・書・礼・楽」です。これが儒教という体系に組み込まれて後世に全土に広まることになります。
孔子は73歳で弟子の子貢に謂水(大河の名で黄河の支流)が見たいと言って連れられて行きます。すでに愛弟子の顔回も子路も、子の鯉もすでに先に亡くしています。4月の春の日の穏やかな大河の流れをかすかに眺めながら「すべてはこのように流れていくのだな」と言い残し、子貢に看取られ静かに息を引き取ったといいます。
この弟子の子貢は後に「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれます。
確かに孔子の出自を考えると、軍人の父は70歳を超える高齢で、母は二十歳に満たない巫女とされ「吾少(わか)くして賤し」(子罕篇)と自ら述懐しているとおり貧しいだけでなく、出自自体に相当な問題があり貴い身分とはとても言えず、幼くして両親を失い、孤児として苦労と辛酸をなめて育ちながらも母に就いて、或いは独学で礼学を学んだとされています。地方の郷党の学校には学んだかもしれませんが、正規の有名な学校で学んだわけではないことは確かですし、弟子の子貢の言うように誰か高名な師について学んだこともなかったようです。ただ自らで自らを奮い立たせるしかなかったのでしょう。
そうした孔子の出自にまつわる記述では、司馬遷の『史記』の記述はかなり、後世の儒者の記述と比べると飾りが無く遠慮のないリアルなものになっていますが、いまの「歴男」の元祖のような徹底的な現場考証と現地での情報収拾を記録に優先させた歴史家の筆は確かかも知れません。何しろ司馬遷は父の遺言で「第二の孔子」たらんことを目標とした人でもありました。孔子の『春秋』のアイデアをヒントに、同様に史実・史料の暦年順の整理から始めて『史記』の制作にかかったのではないでしょうか。
孔子の祖先が宋の重臣であったなどという記述もありますが、後世の儒者の修飾に過ぎないでしょう。両親の次男として誕生となっていますが、父の庶子(傍系の子)との説が有力です。
19歳の時に宋の幵官(けんかん) 氏と結婚し、翌年には子の鯉(字は伯魚)が生まれますが、すぐに妻とは離婚しています。
28歳で魯国の公務員になるまでは生活のために実に様々な職業に就き、訳の分からないような仕事にも顔を突っ込み、数々の芸事や手に職を付けたようです。もちろん15歳で学問を志し、と『論語』にあるので礼学をはじめとする学問にも打ち込んだはずです。
その容貌・体躯は、魯国で季氏に仕える有力武将で陽虎(陽貨)という者がいましたが、孔子はその彼に見間違えられるほど二人とも巨漢で容貌が似ていたと言われています。
この陽虎は野心家で勇猛謀略に長け季孫斯に反旗を翻して、一時魯の実権を握ったこともある人物です。孔子は彼に似すぎていたために逆にそりが合わなかったようです。
普段の生活や接人関係からして潔癖で頑ななまでに礼にこだわり格式を重んじ、また「仁は遠からんや。我、仁を欲すれば、ここに仁至る」(述而第七)と孔子が言うように、孔子の主張は「仁」という規範に集約され、これに尽きるともいえます。
「仁」というのは難しく考えてはダメで、何も「崇高」な行為ではなく、理想高い生き方でもなく、ただ良好な人間関係を築くための基本のことです。相手に対する最大限の思いやりを互いに発揮すれば関係は良好に保てます。物事には守るべき理序や順序があり、守るべき礼儀や規範や人倫があります。そう言うことをある状況や立場に応じて、きちんと個々ができることが相手を不快にさせず良好な人間関係を築く最重要な事柄となります。
またその場合に、相手に合わせて対応を適切にすべきです。ベクトルが同じ方向に合い、そういうことが適宜適切に出来ることも「仁」の範疇です。
孔子は『論語』の中でも君主であれ友であれ度々相手を見て、その人に適した答えを返しています。他の弟子が同じような質問をしても、また違った表現を用いて答えを返していました。弟子の性格の違いと持ち味を考慮し瞬時に判断を下す、そうした反応の早い敏捷な心のバネのようなものが備わっていたのです。
孔子は『論語』でも「仁」の意味をはっきり規定していませんが、将に「仁」とはそういった一意に規定しずらい概念だからでしょう。
また、孔子は古来の儀礼や道徳や故事に倣い、良き慣習を重んじました。食べ物にも、素材や調理法にまでこだわり、相当うるさかったようです。
ことほどさように、彼の気質は神経質で、気難しいやかまし屋、情緒豊かな感情家、直感力の鋭い男、リアリスト、外交家であり、弟子に指摘されるとおり君子(仁者)らしからぬ行動も散見されました。猟官のチャンスさえあれば、いつでもそれをつかもうとするだけの用意がありました。しかし、殆どは失敗に終わっていますが。
「彼は諸列強のあいだにはさまって実にさまざまな苦難にあい、また彼の敵や隠遁派の人々の嘲笑の的となっている」と邱永漢氏も著書で述べています。
そうすると孔子の述べた「人知らずして恨まず、また君子ならずや」という言葉は、人生の達観の境地を表したものではなく、彼の胸騒ぎのようなざわめくもの、拳を握りしめ膝を乗り出さんばかりの挙措を秘めた言葉(決意)のようにも聞こえてきます。
歯切れの悪さは百も承知ですが、以上が私の語りたいと思った「孔子観」です。
しかも、各所の孔子資料の寄せ集めと再構成の結果です。
一方、立派で、完全無欠の理想的な「孔子像」の方は過去に掃捨すべきの如くに語られています。そちらに関心があった方にはもの足らないものとなっているものと思われますが、ご寛恕あれ。
60「大目に見て欲しい孔子伝」
注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。
2013/06/25