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中国名言と株式紀行(小林 章)
第118回 四000年を学ぶ中国名言/「王維と仲麻呂」
『君に勧む 更に尽くせ一杯の酒、西のかた 陽関を出ずれば故人なからん(勧君更尽一杯酒、西出陽関無故人)』
出典【『三体詩』王維「送元二使安西(元二の安西に使いするを送る)」】
[要旨]今生(こんじょう)の別れともいえる酒を親友と酌(く)み交わし、往(ゆ)く友に杯を干(ほ)せと勧(すす)める詩です。
王維は、中国唐朝の最盛期である盛唐時の高級官吏で、時代を代表する詩人です。また、画家、書家、音楽家、舞踏家として名も馳せたといいます。字は摩詰(母・崔氏は敬虔な仏教徒で、名の維と字の摩詰とは、『維摩経』の主人公である居士の「維摩詰」の名を分割したもの)、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれます。太原(現在の山西省太原)の祁人県の人。
同時代の詩人李白が「詩仙」と呼ばれ、杜甫が「詩聖」と呼ばれるのに対して、その典雅静謐な詩風と高潔清雅な性質(人柄)とから「詩仏」と呼ばれます。東晋の陶淵明の田園詩や宋の謝霊運の山水詩を受け継ぎ、南朝から続く自然詩を大成させて、韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐代を象徴する代表的自然派詩人でした。画についても北宗画の祖と呼ばれる李思訓に対し「南宋画の祖」と仰がれています。北宋の蘇軾からは「詩中に画あり、画中に詩あり」と称されています。
何しろ幼若の頃から秀でて二十歳で進士に及第し、仏教や道教にも造詣が深く博識で多芸に通じた人でした。
『送元二使安西』 「元二の安西に使するを送る」
渭城朝雨潤輕塵 渭城の朝雨 軽塵を潤し
客舎青青柳色新 客舎青青柳色新たなり
勧君更盡一杯酒 君に勧む更に盡くせ一杯の酒
西出陽關無故人 西のかた陽關を出ずれば故人無からん
元家の二男(次男)が安西都護府に使者として旅立つのを見送る詩(七言絶句、絶句は四句の詩)です。
元二とは「元」という姓名の家の二男のこと。安西とは「安西都護府」のことで古くは新疆ウイグル自治区のトルファンにありましたが、玄宗皇帝の時代にもっと西の現在の新疆庫車(クチャ)に移されましたが、そこに公務で使いに行く友人を見送る。すなわち、旅立つ友人と実際に「渭城」まで出かけて送別しました。「渭城」は渭水という大河を挟んで唐の都・長安と向かい合う対岸の街で現在の陝西省咸陽市とされます。長安から西方に旅立つ人をここで見送る習慣でした。
街中は朝の雨で、それまで舞っていた軽い砂埃もしっとりと潤いを含んで静まっています。「客舎」は旅籠・旅館のことで、その建物の前の垂れる「柳の葉色」が青々としています。柳は「別れ」を想起させます。中国では古来より送別の汀(みぎわ)に柳の葉で輪を作って贈る習慣がありました。王維は友のために、この宿で送宴を設けたのです。
「陽関」は敦煌の西南約70キロにある天山南路の関所です。一方、天山北路の関所は玉門関です。いずれも西の最果てで、その先はひたすら山や岩だらけの砂漠です。「故人」は物故者ではなく古くからの友人の意で、関所より先は人と会うことはおろか、親しく話を交わせる友人にも会えないことをいっています。ちなみに、王維の友人「元二」の姓名が誰かは特定されていないようです。
この詩は李白「友人を送る(送友人)」と共に、送別歌の双璧です。後世、中国版『蛍の光』のような別離の歌として、民衆に広く歌い継がれていったようです。現代中国でも、必ず学校で教えるとの情報がネットの某ブログに書いてありました。
李白の送別の詩も掲げておきます。二人の作風の違いは鮮明です。
『送友人』 「友人を送る」
青山橫北郭 青山(せいざん) 北郭(ほっかく)に横たわり
白水遶東城 白水 東城をめぐる
此地一爲別 この地 一たび別れをなし
孤蓬萬里征 孤蓬 万里にゆく
浮雲遊子意 浮雲 遊子の意
落日故人情 落日 故人の情
揮手自茲去 手をふるひて ここより去れば
蕭蕭班馬鳴 肅肅として班馬鳴く
王維は遣唐使として長安にいた阿倍仲麻呂とも交流があり、彼が日本に帰る際には、彼のために「送る詩」を残しています。これが「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩です。阿部仲麻呂の中国名は仲満、のち高官となり朝衡、または晁衡と名乗ります。王維はこの時も仲麻呂のために送別の酒宴を開いてくれたのでしょう。仲麻呂も返歌を返しています。
『送秘書晁監還日本國』王維 『銜命還国作』朝衡(阿倍仲麻呂)
積水不可極 銜命將辭國
安知滄海東 非才忝侍臣
九州何處遠 天中戀明主
萬里若乘空 海外憶慈親
向國惟看日 伏奏違金闕
歸帆但信風 騑驂去玉津
鰲身映天黑 蓬萊郷路遠
魚眼射波紅 若木故園鄰
鄕樹扶桑外 西望懷恩日
主人孤島中 東歸感義辰
別離方異域 平生一寶劍
音信若爲通 留贈結交人
阿倍仲麻呂は西暦717年の第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に若干19歳で留学します。同期の留学生には吉備真備や玄昉がいました。
漢代に設立された官僚養成学校である「太學」で学び、超難関を以て知られる科挙に合格し、唐の玄宗に仕えて図書管理係(左春坊司経局校書)から始まり文学畑の唐朝諸官を歴任して高官に登ります。これが縁で李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交を結んでいたと言われています。
また仲麻呂は、初期遣唐使で唐の記録に朝臣真人と呼ばれた粟田真人以来の唐王朝に暖かく受け入れられ馴染んだ人でした。
仲麻呂は在唐35年後、来唐していた藤原清河率いる第12次遣唐使一行らと共に日本への帰国を目指しました。この前に延光寺で鑑真和尚に面会して渡日の依頼にも立ち会いました。そして、出帆するも暴風雨に遭って南方へ流され、ついに帰国は果たせませんでした。仲麻呂の王維への返礼詩には「銜命」とありますから、日本へ帰還するのは遣唐大使を務めた藤原清河らで、仲麻呂は皇帝の命により唐側の使者として日本使節を送り返し唐側の外交文書を携える役目であったというふうに理解もされます。事実、遣唐使帰還の唐から日本への出帆の折りには唐側の漢人が唐使として乗船することも度々ありました。
この時、李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだといわれています。
『哭晁卿衡』李白
日本晁卿辞帝都 日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞し
征帆一片遶蓬壷 征帆一片(せいはんいっぺん)蓬壷(ほうこ)を遶(めぐ)る
明月不帰沈碧海 明月は帰らず碧海(へきかい)に沈み
白雲愁色満蒼梧 白雲愁色蒼梧(そうご)に満つ
結局、仲麻呂一行は西暦755年には長安になんとか帰着しますが、帰国の機会を以後与えられませんでした。
遣唐大使を務め、在唐のまま望郷の思いを抱きつつ没した藤原清河には気の毒でしたが、唐の皇帝(玄宗と粛宗)が在唐者一行の再帰国を許さなかったのは歴史書にも記されたような様々な理由があるのでしょう。
仲麻呂は帰国は断念して唐で再び官途に就き、西暦760年には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南都護(正三品)として安南(ベトナム)に赴き総督を務めました。
西暦761年から767年まで6年間も現ハノイの安南都護府に在任し、西暦766年に安南節度使(正三品)を授けらます。そして、最後は潞州大都督(従二品)を贈られています。
西暦770年1月に、在唐のまま仲麻呂は73歳の生涯を閉じることになります。
王維の送別詩の7-8行目の「鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く、魚眼は波を射て紅なり」とは、素直に友人の無事な旅路を見守ろうとする思いを感じますが、黒々とした大海亀や巨大漁の真紅の魚眼に見守られてとは少し意味は難解です。
「伝説にある大海亀は黒々と天にその姿を映し、巨大魚の目の光は真っ赤で、波を貫くことだろう」と対訳がされていますが、不気味な伝説の動物に海路の安全を託して表現されているのでしょうか。それとも困難で危険な旅路そのものを暗示したものなのでしょうか。
「鄕樹扶桑外 主人孤島中」では「あなたは故郷(扶桑=日本)にも戻れず、あなたは絶海の孤島にいる」といい「別離方異域 音信若爲通」では「別れては、あなたは異郷の人となってしまえば、便りをどのようにして通じることができるだろうか」と。
あなたが異境の人となってしまえば、どうやって音信を通じれば良いのでしょうか、と残念無念の気持ちなのでしょう。どうも伝説の怪物を持ち出し、帰途の恐怖を煽り、帰国を思い止めて欲しいという気持ちが混じっているようです。
交遊のあった李白の哀悼の詩でも、仲麻呂は「明月」にも喩えられています。
どう考えても、仲麻呂は唐朝側の人間として捉えられています。ですから、王維は「元二」へまた何時会えるであろうかという思いで送別の詩を送ったように、同様に仲麻呂に送別の詩を送ったのではないでしょうか。
仲麻呂が日本への帰国を諦めてからの官途の道は、文学畑の文官の方向から左散騎常侍、鎮南都護、安南節度使、潞州大都督(従二品)など実務的な統治官僚へとより重要な高官位を得ています。他の遣唐使が与えられた実務を伴わない単なる名誉官職ではありませんでした。
王維はしばしば文人としては珍しく官位高位を極めたといわれますが、官僚としての最高位は 尚書右丞(正四品下)です。また、李白に至っては宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として3年間朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草にもあたるなど宮廷文人として玄宗に仕えたのみでした。
一方、仲麻呂は以前日本帰国を試みる頃には秘書監・衛尉卿(従三品)で、王維や李白と交わり漢詩に歌われたのは丁度この頃です。王維は吏部郎中や給事中(正五品上)の要職にあったとはいえ、仲麻呂の官位の方がずっと上でした。仲麻呂の最後の最高官位・大都督(従二品)とは官僚順位で言えば上位20-25位の異例の高位官席です。
王維や李白の漢詩に歌い込まれた仲麻呂への思いには、別れや不慮の去世への思いと同時に、その能力を惜しむ強い思いも込められていたのではないでしょうか。
阿倍仲麻呂はそれ程の能吏であり、人才(人柄やひととなり)や文才の面でも恙(つつが)なき逸材であったことの証拠でしょう。
これは私の推測ですが、唐の皇帝が仲麻呂一行の再帰国を許さなかった理由は、安史の乱の影響による国内の混乱もあるでしょうが、仲麻呂の能力を惜しむ朝廷内の声に皇帝が耳を傾け、結果一行の帰国を許さなかったからではないかと思うのです。王維や李白の漢詩から聞こえてくる惜別の声は仲麻呂の能力や人となりを惜しむ思いを代表していたように思われるのです。仲麻呂の王維への返礼の詩にも、自ら非才と謙(へりくだ)りながら仲麻呂自身が唐皇帝への賞賛と忠実な主従の関係と恩顧への感謝がうかがい知れます。それほどに仲麻呂は唐王朝への忠誠を尽くして努力奮闘していたに違いありません。
王維が仲麻呂と漢詩の交歓を交わしあったのは、特別に親しい間柄であったからです。
当時の奈良時代の大和朝廷では鑑真和尚を招聘するなど仏教による国の安定・振興をはかっており、仲麻呂は仏教にも造詣の深かった王維に近づき教えや情報を得ていたのかも知れませんし、互いに仏教を通じて親近感を覚えたのかも知れません。
阿倍仲麻呂は、唐朝側の人間であり、大和国への裏切り者であったのではなく、在唐にあって日本人の勤勉実直で謙譲心を持ち合わせた能吏の良き見本であったのだと思います。
王維自身は、仲麻呂より早く西暦761年(または759年という説もある)60才で没しますが、文人にしては高位高官を得て自ら辞するようなことがなかったことで、後世の人からは詩人としての高評価は定着しているものの「人才ではあったが凡人であった」とか「高人であるが、凡人であった」と言われてしまいます。まあ、ひがみ半分で、本当はそんなこともないのでしょうが。
59「王維と仲麻呂」
注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。
2013/06/21