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中国名言と株式紀行(小林 章)

第114回 四000年を学ぶ中国名言/「朦朧詩人と言われて」

『君 帰期を問うも未だ期あらず(君問帰期未有期)』
                       出典【『唐詩選』李商隠「夜雨、北に寄す」】
[要旨]あなたは私にいつ帰れるのかと尋ねるが、まだその時期ははっきりしない。
李商隠は晩唐の詩人です。博覧強記で知られ、恋愛詩に新境地を開いたといわれますが、彼の描写された振り向き様の姿は、中国文人界きってともいえるほどの容姿端麗ぶりです。
武人で言えば、三国時代の呉国の名将で「美周郎(男前で優秀)」とあだ名された周瑜にも並び讃えられそうな「イケメン」といえそうです。

李商隠は晩唐の官僚政治家でもあり、時代を代表する漢詩人ですが、字は義山、号は玉谿生、またあだ名は獺祭魚と呼ばれます。懐州河内(現河南省沁陽市)の生まれの人で、26歳にして進士科に及第しますが、上級試験には落第します。
官僚としての出発は比較的順風でしたが、その後は処世のために2大官僚勢力であった牛李両党間を渡り歩いたので変節奸と見なされ、厳しい批判を受けて官位は上がらず、地方官僚が長く一生官途は不遇で終わることとなります。

その容姿だけでなく、妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体の祖と見なされます。しかし、西崑体は結局、李商隠の稚拙な模倣に過ぎず、後に北宋中期に入ると欧陽脩や梅尭臣らの鋭い批判を受けて排斥されることになります。
むしろその直後に、王安石によって李商隠の正当な評価が下されることとなります。すなわちその詩には、李商隠が師事した杜甫と同レベルの深い人間洞察が含まれ、華麗な表現の裏にその誠実な人格が窺えることが指摘されたのです。
結局、李商隠は失職して郷里へ帰る途中の鄭州で47歳で病没しますが、その愛した妻・王氏も死の7年前に亡くしています。

当時、唐宮廷の官僚は、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていました。いわゆる牛李の党争です。李商隠は、すっかり党派争いの渦中に翻弄されて、官僚としての希望を見失ってしまいます。
李商隠は杜甫を師と仰ぎましたが、また、最晩年の白居易はその詩を酷愛しました。中国漢詩界の巨頭の繋ぎ目で華麗な舞を踊って見せたのが彼でした。

彼の漢詩は寓意に富み、難解と評されますが、一方類い希なまでの風格を備えているともいわれています。作家・高橋和巳は李商隠をこよなく溺愛しています。
李商隠の作詩は凡そ五百数十篇ありますが、特色としてあげられているのが漢詩中の「典故」の多用です。

これが李商隠の詩の技巧的な特徴となっていますが、僻典からの詩句の引用が多用されていることをいいます。元来、限られた字数で表現する漢詩は、誰もが知っているエピソードなどに登場する印象的な言葉を使う(引用する)ことで、もとのエピソードの内容を鑑賞者に連想させ、詩の内容を膨らませるという技巧を往々にして使用しますが、これを「典故」といいます。
李商隠は当時知識人の良く知る経書・荘子・史記・漢書・三国志などのみならず、稗史(はいし:中国で稗官が民間から集めて記録した小説風の歴史書。また、正史に対して、民間の歴史書。転じて、作り物語、小説の類。野史とも言う)や小説など、むしろ知識人階級が手を触れるべきでないとされた雑書の類からも多く典故を引いています。

以下に、短い二詩を鑑賞してみましょう。
 『楽游原』
 向晩意不適。
 駆車登古原。
 夕陽無限好。
 只是近黄昏。

夕暮れが近づいてふと思い立って気を紛らわせようと、車を駆って原っぱを見渡せる辺りまで昇ってきた。なんと夕日がすばらしい。すっかり見とれていたら、黄昏がもう近い頃合いだ。

 『夜雨寄北』
 君問帰期未有期。
 巴山夜雨漲秋池。
 何当更剪西窓燭。
 却話巴山夜雨時。

「いつお帰りですの、とお前に尋ねられたが、まだいつと、答えるあてはない」という出だしはグッと来ます。巴山の夜雨のように池にみなぎる私の募(つの)る心情を西窓のたもとの灯りをたよりに夜を徹してお前と語り合う時がいつ来るのであろうか、と妻にまるで手紙をしたためているように記しています。

李商隠は詩文を作る際は彫琢を凝らし、典故を引くだけでなく、多くの原典にあたり、共感共鳴し、シナジーを呼び起こすような言葉を慎重に選び出しつつ、非常に刻苦しました。
そのため色々な資料を集めて、机上や部屋一杯に並べていました。選りすぐられ削ぎ落とされた適切で簡潔な修辞表現、典故の暗示的で象徴的な手法は、彼ならではのものです。
李商隠のあだ名、獺祭魚(だっさいぎょ)は、李商隠が詩作する際に読書し参考とするために、数々の書物を机の上や部屋中に並べて置いたのが、川獺(カワウソ)が捕らえた魚をあちこちに並べるという習性によく似ていることから付けられたものだといわれています。後世に、彼のこのような独特の読書法を「獺祭(だっさい)」と呼ぶようになりました。
そのため、しばしば彼の漢詩は晦渋で、彼の真意が果たして何処にあるのか解らないことも多く難解だともいわれます。また、朦朧詩人とも呼称されることもあります。
しかし、静謐の時、無心に彼の漢詩と向き合っていると、伝わる直球的なインスピレーションが必ずあります。それを素直に受け止めてみれば好いように思います。

「朦朧(もうろう)」とは、かすんではっきりしない様子のことですが、後の中国北宋代の政治家で詩人の蘇軾(そしょく:蘇東坡とも号す)の「杜介魚を送おくる」という漢詩の「酔眼朦朧」(酒に酔ってとろりとした目付きになり、頭もぼうっとして、辺りの物がはっきり見えないさま)から来ている言葉のようです。
中国で言われる朦朧詩とは、時代はさらに下って、1976年に毛沢東が死去し、文化大革命が終焉を迎えると、毛沢東の「文芸講話」以来の党の推奨する社会主義リアリズム文芸しか認められず、それまでの社会体制や政治体制に反感を持っていた若者達が内なる心境を、権力の空白のひと時の自由な空気に託して政治利用を拒否して発表された詩作群のことです。おもに『探索』『五四論壇』『今天』という地下出版物に発表され北島、芒克という人達が有名です。その詩は象徴的手法を巧みに利用して体制批判と民主化を訴えていました。しかし、彼らはすぐに反革命的とみなされ、発表の場を失います。後に、その政治的是非を巡って空虚な朦朧詩論争が交わされます。

李商隠の詩文を見て、彼を朦朧詩人の元祖のように決めつけるのは、誠に耐え難く受け入れ難いものと言わざる終えません。政治の派閥の激しい争いの合間で、深い絶望を味わい、自分を見失いつつも、その詩作に於いて精力的に典故を巡り、原典にあたり、彫琢を凝らし、我が身を削ぐような刻苦を重ねた彼の頭脳は明晰そのものともいうべきです。その冴えた煌めきを上記の二詩作がはからずもよく示しています。
                                 57「朦朧詩人と言われて」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/06/13