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中国名言と株式紀行(小林 章)
第86回 四000年を学ぶ中国名言/「迷いの多い時には、原理原則に立ち返ろう」
『難いかな恒あること(難乎有恒矣)』
出典【『論語』述而篇】
[要旨]節を曲げないということは難しいことだ。
以下に全文と簡単な解釈を付す。
「子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、子曰、善人吾不得而見之矣、得見有恒者、斯可矣、亡而為有、虚而為盈、約而為泰、難乎有候恒矣[子曰く、聖人は吾得てこれを見ず。君子者を見るを得ば、斯れ可なり。子曰く、善人は吾得てこれを見ず。恒ある者を見るを得ば、斯れ可なり。亡くして有りと為し、虚しくて盈(み)てりと為し、約にして泰(ゆた)かなりと為す。難いかな、恒あること]」
解釈:先生が言われた。「聖人に私は遂に会うことはできなかったが、君子の人に会えればそれで結構だ」と。また、先生は言われた。「善人に私は遂に会うこともできなかったが、恒のある人に会えればそれで結構だ。無いのに有るように見せ、からっぽなのに満ちているように見せ、生活に困っているのにゆったりと見せている人も多いが、本当にむつかしいね、人の常(恒)のあるということは」と。
「常(恒)のある人」とは、心に一定の守るところがあって、世俗の名利や窮乏に動かされない人のことだそうです。したがって「恒心(常のある心)」とは、時間の経過や状況の変化によって変わらない誠実な心の持ちようということでしょう。
『孟子』[梁恵王上]には「恒産なければ、因って恒心なし」とあります。「恒産」とは、生活を支えるに足る安定した収入のことですから、安定した財産や収入がなければ「恒心」も保てないと言っているわけです。また、『管子』[牧民]に「倉廩実つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」とあり、「衣食足りて礼節を知る」という諺のもとにもなっています。いずれも為政者は、民に安定した一定の財産や収穫を保証しなければ、すぐに人心は乱れて治国の基盤も危うい現実のことを言わんとしています。
「恒心」や「礼節」は、その人の経済的基盤の上に成り立つという考え方ですが、孔子自身はもっと純粋純真にその概念を語っているように思えます。もちろん経済的下部構造を離れて、純粋にその上部構造としての思想や文化が成り立つはずもありませんが、あの愛弟子・顔回の清貧でひたむきに学問に打ち込む姿に貴い思いを抱いたのも、また孔子の姿でした。
先の『孟子』の原文に再度あたると「恒産なくして恒心あり、若しそれ民に恒産なければ、因って恒心なし」となっており、最初に孟子は「心構えとしては、普通レベルの定収入や財産がなくても、平常心(恒心)を失わないことが大切だ」と述べてから「しかし、もし一般の人民に、きまった相応の財産がなく、収入も不安定であれば、安定した気持を期待するのは無理というものでしょう」と現実に即した問題を言っているのです。
私の推測ですが、孔子であれば前段の「恒産なくして恒心あり」としか言わないのではないでしょうか。孔子の取り上げた「恒心」とは理想的規範に近いものです。
もし、仮にそうであれば「恒」には、徳に大徳と小徳があったように、理想に近い「大恒」と俗世の「小恒」とがあることを孟子が暗に説明してくれている、とも取れます。
詮索していけば「恒なる心」とは、なかなか深い概念で興味が尽きませんね。
日本語に「貧すれば鈍す」または「貧すれば鈍する」という言葉があります。
辞書には「貧しいと、生活苦に煩わされることが多くなり、才気や高潔さが失われてしまうものである。瀕すれば鈍する、ともいう」または「貧乏すると、世俗的な苦労が多いので、才知がにぶったり、品性が下落したりする」とあります。幸田露伴『名工出世譚』に最初の用語例があるようです。
この用法に従えば「瀕死」や「危機に瀕する」などで使用される「瀕」は「1、水と接した所。みぎわ。岸。 2、すれすれまで近づく。迫る」と辞書にあり、貧乏の「貧」と同義で使われることがあります。ギリギリ、すれすれまで切迫する様子が「貧しい」様子に似ているからなのでしょうか、確かに親和性を感じます。
逆に「恒心」や「恒産」の「恒」はギリギリ追い詰められるような切迫感とは無縁な様子、変らないもの、常に決まったものという状況・状態を表します。今回のキーは「恒」という字ですが、安全や余裕、豊かなイメージを湛えています。
ちなみに「恒」の対義語は「恒温動物」に対する「変温動物」の「変」です。「恒」は自らの安定を意味し、一方「変」はあくまでも相手に合わせるので不安定で取り繕いに多忙な様です。
私なりの勝手な解釈となりますが「恒」とは、気温など生存条件に関わる外界の環境変化に対する対応・対処の仕方のことではないかと思うのです。
変化の激しい世の中では、先んじて、その対処の仕方と対応策が予め準備されているかどうかによって、招来される結果は自ずと異なります。
対処法も心の準備もなければ、その変化の早さに翻弄されて、例えば心理面では危険な水際ギリギリすれすれまで追い詰められて、例えばそれが生活面に発現すれば余裕無く「貧乏」として現実化します。
逆に、世の中の大変化に対して、きちんとした原理・原則に則って準備を怠らなければ、多くの脱落者が出るなか、脱落者の隙間が空く分、結果チャンスが増え、何とかその変化をチャンスにも変えられる訳です。
「恒なる心」とは、この原理・原則のようなもののことではないでしょうか。また、原理・原則に常に立ち返る心の有り様のことではないかと思うのです。
「チャンスは準備された心に降り立つ」といいますが、ここでいうしっかり「準備された心」とは「恒なる心」のことでしょう。
「貧乏を囲って」生きているような人は、常に目前の「お金」のことに汲々としていますから、お金に造詣が深いようについ思われがちですが、実は意外に「お金」のことに疎い人達のことです。お金に縛られ常にギリギリ、すれすれで、入ればすぐ出るの繰り返しで何とか日々の生業(なりわい)を得ているような人は「お金」に支配されているようで、お金に忌(い)まわしい嫌悪は感じますが、親しみなどを感じることは少ないようです。そうした「怨み」や「嫌悪感」が、自分自身や自分の生活から、ますます「お金」の存在を遠ざけてしまっています。
『老子』守道第五十九章に「治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是謂早服。早服謂之重積徳。重積徳、則無不克。無不克、則莫知其極」とあり、林語堂の英語和訳では「人の世で物事を処するのには、つつましやか(倹約)に勝るものはない。つつましやかであることは、物事に先んじることである。先んじれば準備万端整い、足場は強固になる。準備整い足場が固まるのは、常勝の道である。常勝の道とは無限の能力を意味する」とあります。
世の大変化に処するには虚飾のない「倹約(嗇)」が一番で、節約していれば先取の風を身につけることができ、物事に先んじることができれば準備万端整い立場は強固となるし、万事如意、克服し続けられる、そうした道を究めることもできる、というほどの意味に解釈できます。
やはり、いにしえの人の知恵は偉大です。すべてお見通しです。
では「恒なる心」=「準備された心」の力強い支えとなる原理・原則とはいったい何なのでしょうか。それを、よ~く考えてみましょう。
それにしても、日本では「恒なる心」と言えば、政治家が「ぶれない意志」とか「平常心が大事」とか解釈してしまうようですが、我々はこのケースとは断固別物であると理解しておきましょう。
43「迷いの多い時には、原理原則に立ち返ろう」
注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。
2013/04/18