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中国名言と株式紀行(小林 章)
第82回 四000年を学ぶ中国名言/「昔の知恵や、いまいずこに」
『学を好むは知に近く、力(つと)めて行うは仁に近く、恥を知るは勇に近し(好学近乎知、力行近乎仁、知恥近乎勇)』
出典【『中庸』(朱子章句)第二十章】
[要旨]学問に親しめば「知」に近づき、努力を怠らなければ「仁」近づき、恥を知れば「勇」に近づく。
孔子の孫に当たる子思が記した孔子自身の言葉とされています。『中庸』には「知、仁、勇の三つの者は、天下の達徳なり(知、仁、勇の三つの徳を持ちあわせていれば、人は道を踏み外すことなく、人生の大概のことは乗り越えられる)」とあります。遡って『論語』郷党編には「智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない」ともあります。
「知」は事物を見通したり、見分ける智慧のことです。「仁」は「巧言令色、鮮(すく)なし仁」「剛毅木訥、仁に近し」と言われているように、一言でいえば、自他に対して思いやり、誠実な生き方をすることです。また「勇」はおそれない心、勇気を伴う決断力のことです。
この「知、仁、勇」の三徳、或いは三達徳(時代や身分を超えて、どんな場合にも通じる三つの徳)の境地を得るために、それぞれ「好学(学問に励むこと)」と「力行(行動を起こし努力すること)」と「知恥(常に自分の至らなさを自覚し、それをバネに発憤すること)」が目下の目標となると孔子が述べているのです。この三達徳は、儒教の目指した「修己治人」の基本です。「修己治人」とは、いわば権力者=君主の条件です。「己を修む」とは能力と人格の両面にわたって自分を磨くことで、それによって初めて「人を治む」つまり人の上に立つ資格が得られるのだといっている訳です。人の上に立つとは、本当に楽なことではないですね。儒教では、権力者=君主に大変高いハードルを課し、適任者能力枠は非常な「狭き門」となっています。歴代、顧みられることもなくただ冗長だったり、逆に極短命に終わったり、実質「該当者無し」続出だったのも肯けます。
現在「修己治人」は、おもに為政者や政治家ではなく、企業の理想のリーダーやリーダーシップ論で語られることが多くなりました。中国古典に通じた中国文学者の方々も、本業は傍らに置いてでも、盛んに論語や孫子の兵法を引用して「リーダーの条件」を語っておられます。これも需給関係を伴った世相の反映なのでしょう。
ですが、よく考えると、孔子や孫子、韓非の時代の理想の封建君主像を現代の会社や社会のリーダーに見立ててしまうのも、時代の移り変わり、平和な世の中を実感せざる終えません。平板に重ね合わせないのが、お約束の筈なのに、それはまるで真筆と偽書の関係に似ています。真に対して偽にも某かの価値を認める人があろうかとの思惑から世に流行るのでしょう。
ひとつの正解を、邱永漢氏はHI-Qで述べておられます。
「人間の知恵は昔も今もあまり変わらないので、昔の知恵が役に立つことがあります。古典をひもとけば、そういう知恵が無尽蔵につまっています。
でも、昔の知恵が通用しなくなったこともたくさんあります。」
先賢の知恵を借りることが有効であることは自明です。大いに借りて自己の成長の肥やしとすべきです。しかし、何でも借りてこれるわけでもないのです。それは、通用しなくなった昔の知恵もそれ以上に多くあるからです。
古典学者は「昔の知恵」を元のコンテンツの文脈で執拗に解釈するので、その用法にうるさかったり、応用に厳格であったりします。別分野の「門外漢」が変に自己流の解釈や文脈のなかで使っていると、間違いを指摘されたりするものです。そのくせ自身も、孔子の言葉ではないが「沽(う)らんかな、沽らんかな-」よろしく、権威を許す別分野への売り込みに余念がありません。私にはそう見えます。
私としては、実益を旨とする別分野の「門外漢」の自前解釈は大いに結構だと思っています。「昔の知恵」はそれぞれの独自解釈や文脈のなかで広く語り継がれてこそ、専門家の長年にわたる研究分野がその光輝を取り戻すのだと思います。
世に流行るリーダーシップ論も、中国古典のなかの理想の君主像がお手本では、どこかお仕着せがましい風潮のようで、既製服に合わない人には具合が悪いようです。それが、企業の社員教育の場で多用され、もてはやされるのはどこか、無理に既製服で統一してしまえ、と言っているようです。
うろ覚えですが、西洋にこんな諺があるようですが、私の心境はそれに近いようです。
「牛を水辺に連れて行くことはできても、牛に水を飲ませることはできない」
教育では人を水辺に導くことはできても、無理に水を与えることはできないものです。
偶然見た年初のテレビの座談会で、司会者から「中国人は間違っても、正直に謝らない」と言われて、中国人女子学生がヤケ気味にオーバーアクションを交え「中国語には、正直という言葉はありませんよ」と答えていて、思わず大笑いしてしまいました。
また、話が発展して、女子留学生が「中国には、日本の上司と部下の関係などあり得ない」と述べて、日本人出席者は一様にキョトンと、他の出席中国人からは賛同を受けていました。まあ、そうかも知れません。
しかし、中国にも上下関係は勿論あります。日本でのような煩わしくもややこしい縺れ合った上下関係が無いだけです。ドライな関係が基本で、彼や彼女等が目指しているのは、自己の仕事の達成や習得と自分に有益な人間関係です。有能で仕事のできる人ほど、専心します。彼、彼女等には「時間が限られている」という意識が常にあり、自己能力を高めることにこそ価値があり、かつ重要だからです。上司やライバル達にかかずらわって、点数を稼ぐよりも、実力を付けてボスに直球評価されたり、いずれ将来独立したいからです。
日本に来ている中国人は、すぐに諦めて帰国する人もたまにはありますが、周囲の親しい人々の強い期待と金銭的援助によって来日しているのです。まずは、日本での自身の安心できる地盤の確保と経済的安定や収入の道が整えられなければ、一時の平安もありません。
まず、結果が強く求められていることをよく知っています。
座談会で話題には出ませんでしたが、日本で流行の平時のリーダーシップ論にも、きっと彼、彼女等は違和感を覚えるだろうな、と思ったのでした。
41「昔の知恵や、いまいずこに」
注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。
2013/04/10