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中国名言と株式紀行(小林 章)

第80回 四000年を学ぶ中国名言/「管仲か、鮑叔か」

『墻に耳有り、伏寇は側に在り(墻有耳、伏寇在側)』
                                 出典【『古詩源』(『管子』)】
[要旨]敵はどこに潜んでいるかわからないから、身辺には十分に注意して、言動は慎重に行うべきだとの戒め。日本でも、ことわざに「壁に耳あり、障子に目あり」があります。出典の初出は「源平盛衰記」や「平家物語」からで、西行法師が平家の悪口をいうと、まわりの人びとが「壁に耳あり、あな恐ろし恐ろし」といったとありますが、中国古典にも造詣の深かった西行法師の頭には『管子』の上記の「墻(かき)に耳有り」があったと思われます。「墻」は生け垣のことで「伏寇(ふくこう)」とは、隠れ潜んでいる賊(ぞく)のことです。

『管子』は、現存するのは七十六編で、成立は戦国から漢代にかけてと言われ、経済政策や富国強兵策などを記した書物で、中国春秋時代の斉の政治家である管仲に仮託して書かれた法家の書物といわれています。
管仲は、管夷吾とも名乗り、斉の宰相として桓公に仕え、覇者に押し上げた智相と言われました。しかし、管仲の傍らには、その能力を知り、常に傍らから盛り立てることを厭わなかった影の存在がありました。それが、Hという人物です。彼の推薦により管仲は桓公と面会し、強兵の前に国を富ませることの重要性、そしてそれには民生の安定と規律の徹底が必要だと説き、桓公から即日宰相に命じられます。Hは公子の出自でありながら、管仲の配下の立場に甘んじ、自らその補佐に回ったのです。管仲は持てる才能を存分に発揮できる場所と右腕を得て、その優れた能力を発揮しました。

「墻(かき)に耳有り」以下の解釈は、春秋時代の「義戦無し」と言われ権謀術数や裏切りの疑心暗鬼の渦巻く時代背景があります。自分の家の庭先の生け垣に敵の耳があり、信用している部下ですら敵の伏兵であるかも知れない、そんな用心深さを要するというのです。
なかなかに気の置けない世の中です。少し息苦しさも感じます。統制監視された社会にも似ているかも知れません。
私の工場の月末には工員への給与支給が行われます。一人ずつ工員を呼んで、給与包(袋)に給与明細と現金を入れて控えにサインさせた後手渡しますが、当日には皆が他人の給与額を知っています。○○さんと比べて自分の取り分が少ないと文句を言いに来る人が必ずいるからです。給与基準は公表されており、上司の裁量や案配給はありませんから、いくら文句や苦情が来ても根拠は明確です。昇進についても基準が定められていますが、誰が昇進するかは公表日までは箝口令が敷かれます。幹部会議の非公表議決や工員や幹部間の個人的な秘密事項もほとんどの公表を控えてきた事項については、何らかの形で、しかも短期間に工員や部外者にも広く知れ渡ることとなってしまっています。
中国人の間では、隠し事は本当に難しいです。秘密はない、といってよいと思います。日本式の人材操り術はまったくと言ってよいほど歯が立たず、通用しませんでした。一般の人間間の交わりに於いても、多分に個人間の口を通して交わされた秘密は存在しません。そう思った方が無難です。人の口を通して交わされた約束や契約であっても内容は筒抜けとなると思っておいた方がよいでしょう。本当に秘密にしておきたいのであれば、口にせず胸にしまっておくことです。しかし、中国人は口が軽い、と蔑むことはできません。これも文化として受け入れる必要があります。

俗世に輝く「管鮑之交(かんぽうのまじわり)」という言葉があります。
互いによく理解し合っていて、利害を超えた信頼の厚い友情のことをいい、きわめて親密な交際のこととされています。一般に広く使われています。
言葉の由来は、大体次のようになります。中国春秋時代、斉の桓公に仕えた宰相のKと大夫の鮑叔牙とは幼いころから仲がよく、かつて共に商売をしてKが分け前を勝手に余分に取ったときも、鮑叔牙はKが貧しいのを知っていて決して非難しなかった。また、Kが鮑叔牙のために事業を計画して失敗し、逆に鮑叔牙を困窮に陥れたときも、鮑叔牙は時には事物には利と不利があるとして決してKを愚か者だと非難しなかった。Kは幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが鮑叔牙はKを無能者呼ばわりしなかったが、それはたまたま時節に恵まれていないことを察していたからだ。また、Kが何度も無謀にも戦に参加し、そのたびに敗れて逃げてきても、鮑叔牙はKが母を養っているのを知っていて決して悪口を言わなかった。のちに、桓公にKを推薦したのも鮑叔牙であった。Kも「我を生む者は父母なり、我を知る者は鮑叔なり」と言って、鮑叔牙の厚意にいつも感謝し、二人の親密な友情は終生変わらなかったという故事が残されています。

もうお分かりでしょうが「管鮑之交」で勇名を馳せるKとは管仲のことであり、片や彼を支えたHとは鮑叔牙のことでした。

歴史とは、時に公平な目を持ち合わせるものです。斉の桓公は管仲を宰相として覇者となりましたが、鮑叔は管仲をよく助けて共に政治にあたりました。司馬遷の『史記』には、のちに人々は桓公を覇者に押し上げた管仲よりも、管仲の力量を見抜き信頼し続けた鮑叔を称えた、とあります。
しかし、こうした人間関係って、中国には割とあるようですよ。日本では聞きませんが。
                                   40「管仲か、鮑叔か」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/04/06