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中国名言と株式紀行(小林 章)
第76回 四000年を学ぶ中国名言/「荘子の性格についての一考察」
『尾を塗中に曳かん(曳尾於塗中)』
出典【『荘子』秋水篇】
[要旨]高位高官に就いて窮屈な思いをするより、貧しくとも自由に生きる方がいい、ということの喩え。「塗中(とちゅう)に尾を曳(ひ)く」とは、泥水中に亀が尾を引き、自由気ままに生きている様を表現したもの。この話は、荘子が濮水で釣りをしていた時の話です。戦国時代の楚の威王が二人の大夫を使者として派遣し、千金の贈り物と共に、荘子を楚の高官に招聘しようとしました。「どうか国内の政治をあなたにお任せしたい」と彼らが言うと、荘子は釣竿を手にし、糸を垂れたまま、振り向こうともせず、こう訊ねた。「私の聞くところでは、楚国には神霊の宿った亀がいて、死んでからもう三千年も経つというのに、王はそれを絹の布で包み、廟堂に大切に保管していると聞く。ところで、その亀自身は、死してなお甲羅のみを拝み貴ばれることを望んでいただろうか。または、生きて泥の中で尾を引きずりながら自由に生きることを願っていただろうか」荘子の問いに、二人の家老は答えた。「それはもちろん生きて泥水中で尾を引きずる方を望むでしょうね」それを聞いて、荘子は言った。「じゃあ、行きなさい。私も泥水中で尾を引きずって生きていきたいから」と。
荘子という人は、儒家の孟子と同世代の人物ですが、宋国の生まれで、農村に止まり静かに清貧の暮らしをして勉学に励んでいたのだそうです。宋の人にしては、ずば抜けてIQの高い賢い人でした。それは、宋が滅んだ殷の人たちが移住した国で、当時の中国社会では宋人といえば徹底して蔑まれていたからです。『孟子』には、畑の稲を早く成長させようと毎日せっせと稲の苗を引き伸ばして、結局枯れさせてしまった農夫の話や『韓非子』には目の前の切株に走ってきたウサギが当たって死ぬのを見て、以来毎日株のそばに座って、ウサギが来るのを待っていた男の話などが載っていますが、それらはいずれも宋人の話です。
こうした当時の宋にあって、しかも田舎暮らしでありながら、学問の分野ですが、勇名を馳せ、楚王にもその才が知れわたっていたのですから、名にし負う賢人と目されて当然でしょう。しかもかなりの曲者と見受けられます。
荘子は、結局生涯どの国の王侯にも仕えることもなく、また一生涯常に貧乏でした。
すなわち、荘子の貧乏にまつわる話。
「あるとき、お金に困った荘子が友人の上級役人に食べる穀物を借りに行くと、友人は『近く税金が入るので、それが入ったら貸してあげよう』という。これを聞いた荘子は次のような話を語った。ここへ来る途中、道端で鮒が雨水無しで干からびようとしていた。そして『たとえ僅かでよいから水をくれ』という。『私はこれから遊説に行くが、途中に長江があるので、そこに着いたら君を迎えにこよう』といった。そうしたら鮒は『もういいよ、そのときは乾物屋の店先で俺を探してくれ』と答えたよ、と言い捨てて立ち去った」(『荘子』雑篇4外物篇(2))という話があります。貧窮しても、誇りは堅持していたという話です。
これも貧しい話です。「荘子が魏王と会見したとき、荘子は粗末な布の着物で、つぎはぎだらけ、靴もぼろぼろで麻縄で縛り付けているといったありさま。魏王が『先生はなんともくたびれたご様子で』というと、荘子は『これは貧であって、くたびれているのではありません。士として道徳がありながらも実行できないのがくたびれです。貧とはよい時代にめぐり合わないというだけです』と言い放った」(『荘子』外篇13山木篇(6))といいます。荘子は外見的な貧乏と精神的なくたびれとは違うと言いたかったのです。
お金の有る無しとは、金持ちと貧乏のことですが、どちらの境遇に置かれたとしても、ひとはその人本来の性格を増幅器のように増長させるものです。分かりやすく言えば、極端な金持ちや又は貧乏人の境遇になってみれば、その人の本来持っている性格がより良く分かるということです。よく、あの人は金持ちになって性格が変わったとか、事業が破産して人格が変わったなどと言われることがありますが、そんなことはあり得ませんし、それは基本的に間違っています。どんな環境変化が起きたとしても、ひとの性格や人格がそうそう変わることはあり得ません。それは、殆どの場合、その人の本来持ち合わせていたが、たまたま目立たなかった性格や人格が増幅・増長された結果だと言えるでしょう。本性が意地悪な人は、お金持ちになっても又は貧乏人になっても、ますます意地悪が目に余るようになります。また、もともと親切な人は、お金持ちになっても逆に極貧に置かれても、ますます心から親切に、且つお節介にも似た風に振る舞うことができます。
荘子は、この公式に従うと、本性は自信家でユーモアに富む、潔い志の高い人のようです。
諸国の大夫(大臣)となって、王侯諸賢などの周りに仕える人達に気を遣い、おもねりへつらうことがどんな目に遭わされるかをよく心得ていた人ではなかったでしょうか。
「仮に衛君が賢者を好んで愚人を嫌うようなことであれば、どうしてわざわざお前を求めようか。賢者は周囲にたくさんいるのだ。お前は決して意見など言ってはならぬ。言えば必ず王公の権勢でお前を負そうと挑んでくるに違いない。お前は目がくらめき、顔色が変わり、口はあれこれと取り繕い、そうして心は相手の言いなりになっていくだろう。これでは火をますます大きくし、水を止めようとして逆に水を注ぐようなものだ。こういうものを益多(増長させる)という。後は無限に後退を余儀なくされる。お前は信用されない身でずけずけ諫言すれば、殺されることは間違いない」(『荘子』内篇6人間世篇Ⅰ)
孔子のもとに弟子の顔回が旅立ちの暇を告げに来た。孔子が理由を聞くと、顔回は衛の君主は壮年になって非道な行いから民が虐げられており目に余るものがあるため、その民を救済するために王に進言に赴くのだという。その顔回を諫めて孔子が述べた言葉です。
これは、孔子の口を借りて荘子が自らの見解を述べた言葉と理解してよいでしょう。そして、また顔回の立場も、決して口にはしないが、自らの秘めた心の内なる荘子の心だとも言えるでしょう。荘子の学問に励み、清貧に暮らす姿や心根は顔回に近いものがあります。
『荘子』の中には数多くの孔子の言葉が出てきます。荘子は直弟子の顔回とはその立場は逆説的で、かつアンチな意味ですが、実は内心は顔回と同様に孔子を師と仰ぎたかったのかも知れないな、と私見ですが思うのです。
以上の『荘子』からの文章は、おもに金谷治訳を参考にさせて頂きました。
38「荘子の性格についての一考察」
注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。
2013/03/29