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中国名言と株式紀行(小林 章)

第70回 四000年を学ぶ中国名言/「水清ければ魚棲まず」

『己を舎てては、その疑いに処ることなかれ(舎己、母処其疑)』
                               出典【『菜根譚』前集・八十九】
[要旨]一度身を捨(=舎)てるほどの覚悟をしたなら、もはやためらってはいけない。
「菜根譚」の作者は、明代末の文人・洪自誠という人。菜根譚の由来は「人よく菜根を咬み得ば、すなわち百事なすべし」という言葉から来ており、菜根は堅くて筋が多いため、これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる、という宋代の儒学者であり「新儒教」の朱子学の創始者・朱熹の撰した『小学』のなかから採られているという。意味転じて、苦しい境遇に堪えた者だけが大事を成し遂げるという解釈もなされています。
「菜根譚」は別名「処世修養篇」とも呼ばれ、360ほどある通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書です。三教とは、中国において、儒教・仏教・道教の三つの宗教を指して言います。この書は中国ではあまり重んじられず、かえって日本での人気が高く、江戸時代に盛んに読まれ、特に禅僧の間などで愛読されました。
洪自誠は、儒教、道教、仏教をそれぞれに修め、神仙の思想にも造詣が深く、山林に隠遁して暮らした人らしいが、詳しい経歴は不明です。前集・七十七に「地之穢者多生物、水之清者常無魚」(穢れた大地は多くの作物を生み、澄みきった水には魚が棲まない)という言葉がつとに有名です。

いったんおのれを捨てたならば「その疑いに処(お)ることなかれ」とは、「ためらいや利害打算の迷いの気持ちを持ってはいけない」ということ。「おのれを捨てる」とは、たとえば犠牲的精神を発揮して人に尽くすという場面が考えられる。こういう時に、一旦そのつもりになった後で「これでよかったか」と迷う心理が働くとする。しかし、それでは、そう決めた自分の気持ちにも悖(もと)ることになる。原文は「その疑いに処らば、すなわち捨つる所の志も多く恥(愧)ず」と続く。すなわち、人のために身を捨てようと思いながら、なおも迷っていたのでは、最初の決意に対しても恥ずかしいことだと説く。

更に、その後に「施人毋責其報、責其報、併所施之心倶非矣」(人に施してはその報を責むることなかれ、その報を責むれば、併せて施すところの心もともに非なり)と続く。
おおよその意味は「人に恩を施すからには、それに対する見返りを期待してはならない。もし報酬を求めるようであれば、最初の動機までが不純であったことになる」ということ。
平たく言ってしまえば「自己犠牲」や「報恩」という行為は、実行するからには迷ったり見返りを期待しちゃあダメだ、やると決めたんだから最後までやり抜けよ、ということ。この手の綺麗事は、正論だけに、何となく嫌いだァ。ひとの行為には、疑いがあったり、裏があったりするから、愛嬌が感じられるのに。それを否定されちゃあ、味気ない世の中になってしまいませんか。

利害打算に取り憑かれたり、何にでも見返りを期待する風潮は、まさに「向銭看」の改革開放以降の中国の行き過ぎた姿です。元々計算高く、計算ずくな行為が目に余る人々ですが、特にひとの財布の中身の計算が得意中の得意です。ある人が商売で儲かっていると見れば、扱う商品の値段を聞いて、すぐにでも売上げや月商と利益の計算を始めてしまう性癖。家の調度品に目星を付けて、幾ら位の財産価値有りと判定。勿論、他人から頼まれて、一肌脱ぐ時もちゃんと頂ける見返りの計算が出来上がっています。また、その通り事を進めたがります。自分の財布の算段にも抜かりがありません。
また、この「そちらから頼まれたから」というのがクセ者。自分じゃなくて、そっちがわざわざ頼むと言うからやってあげたのに、と因縁を持ち出す。難癖を付けてくる。

ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。
こちらは、まず貴方に仕事をして貰ってから、その仕事内容と仕事量、仕事に取り組む姿勢などを斟酌してから、お支払額を決めたり、その方のご採用を考えたいと思っているのに、そうした態度が高飛車とか、上から目線だと見なされて、そっぽを向かれてご機嫌斜め。あげくに、何もお分かりになってないとばかりに敬遠されたりしてしまいます。
自称「能ある鷹」とおぼしき人材から、その爪を隠されたまま能力判定を一方的に迫られて、相手の言うまま仕事を与え、お金を払い、食事に招待し、贈り物を要求される訳です。それはちょっと理不尽じゃないですか。
これではいつまで経っても、互いの思惑はすれ違うばかりで、直線は交わることがないのと一緒です。日中の相互理解は進みませんよ。

しかし、いちばん、無償の「自己犠牲や報恩」から遠い人たちなのに、なんとなれば無償の行為を讃える。そうした行為を讃える心根を持つ人たちなのです。「怨みに報ゆるに徳を以てす」とか、普通の人ではとても考えられません。おもに政治などの重要な駆け引きの世界の用法や技法のことです。
「水至清則無魚(水清ければ魚棲まず)」(『孔子家語』入官)という言葉があります。『菜根譚』前集・七十七にもある言葉の元となったものと考えられますが、意味は「あまりきれいで澄みきった水には魚が棲みつかない」ということです。すなわち、人格や考え方が潔白すぎて、他人をとがめだてするような人は、かえって人から親しまれず敬遠され、仲間を無くして孤立してしまうということです。
戦国時代の楚の国の有能な宰相で詩人の屈原という人は、どうやらそういうひとだったようです。ですから、今でも政治家に大変な人気があります。

つい先頃、温家宝首相は、米紙ニューヨーク・タイムズが報じた家族の27億ドル以上の巨額蓄財疑惑に対する説明責任を果たしていないとの批判に対して、外遊先のタイで、春秋戦国時代の楚の詩人、屈原の「真理を追求するためなら何度死んでも悔いはない」「自分の潔白のためなら、たとえ死んでも誠実であり正直でいる」との句を引用したと伝えられています。楚王への再三の意見が受け入れられず、失意の中で自殺した「愛国の詩人」の詩を借り、間接的に自身の「潔白」を訴えたとみられる、との解説付きでした。
温首相は11月の共産党大会で党の要職を退いてから初の外遊でしたが「数か月後には引退し、隠居する。人々は私のことを忘れてほしい」と語ったとされます。

やはり、清濁併せ呑むような関係がホッとする関係なのでしょうか。ああ、いつものやつ、やってるやってる、といった感じですな。
おっと、温首相のことではありませんよ。誤解無きよう。私の関心は、温首相から引用された屈原の詩にあるのです。いま原典にあたっているところなのです。
                                 35「水清ければ魚棲まず」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/03/17