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中国名言と株式紀行(小林 章)

第60回 四000年を学ぶ中国名言/「法制権を争う中国の歴史」

『遠水は近火を救わず(遠水不救近火)』
                                   出典【韓非子』説林篇】
[要旨]遠くにある水は、今ここで起こっている火事を救うことはできない。
戦国時代の小国・魯の穆公は、強国で敵対する斉へ対抗するための外交政策として、自らの子ども達を大国で魯と交流のあった晋や楚などに仕官させ、もし斉から攻撃を受けたらそれらの友国から援軍を派遣して貰おうというものだった。この穆公の外交政策を重臣の犁鉏(りしょ)が次のように言って実効性がないと評した。「越の人は泳ぎが達者だからといって、溺れた子どもを救うのに遠国の越の人を呼びに行っていたのでは、手遅れで間に合う筈はありません。また、火事が起こった時、海に水がいっぱいあるからといって、火事を消すために遠くの海の水を引こうとしたところで、その間に家は燃え尽きてしまいます。これと同じことで、晋と楚は強国ではあるが、いくら外交関係を緊密にしても、魯と遠く隔たっている。魯が隣国の斉に攻められたときには、恐らく魯の助けにはならず、斉の脅威を解消することにはならないでしょう。すなわち、遠水は近火を救う事はできないのです」韓非の現実主義をよく現した故事だとされています。
「遠くの親戚より、近くの他人」という仏教書の言葉は、この「遠水は近火を救わず」から派生した言葉です。

韓非の「よく現実を直視し、実効性を重視せよ」という現実主義は、勿論韓非の生きた時代の情勢の事実から発したものでもあるでしょうが、その見方には孔子(紀元前551年9月28日-紀元前479年4月11日)の説いた思想の下敷きがあったからです。韓非の著書とされる『韓非子』にも孔子の言説がよく取り上げられていることからも、そのことが知られます。孔子が先王の時代の善政のしきたりや礼を重んじたのに対して、韓非はそのことの道理を認めながらも、現実からのズレを指摘して、実効性の面からの現状に即した策を考えます。一方、道教の祖の一人として崇められる荘子(生没年は厳密には不明、紀元前369年-紀元前286年と推定)も、孔子の言説をよく取り上げ、目の敵のようにその理論の反証をおこなって自説を展開しています。

韓非(紀元前280年推定-紀元前233年)は韓の公子という出自を持ち、法家の始祖ですが、『史記』によれば当初は性悪説を説く儒家の荀子(紀元前313年-紀元前238年生没年いずれも推定)に学んだといわれています。
荘子と韓非、いずれも孔子の思想や言説を下敷きに、一方が孔子に対する徹底した「反」の思想を打ち立てたのに対して、他方韓非の方は孔子のといた説と現実を照らして、その不合理をどう正せば実効性のある効果が得られるかを突き詰めたということではないでしょうか。

非凡な君主の出現を待っていては、いつまで経っても善政は行われないことになりますから、凡庸な、あるいは愚鈍な指導者であっても、政(まつりごと)の成否や真偽を「礼による徳化」で補うよりは、英知を尽くした「法」に則って信賞必罰主義で粛々と行われるべき。そうした発想がどうやって構想されたのか。興味は尽きません。
韓非は生まれながらの重度の吃音(どもり)で、口で喋るのはたいへん苦手でしたが、「それなら文章で雄弁に語ろう」と思い立ち、努力して名文家になったとされます。
私の知人にも吃音(どもり)者が数人います。中国人には比較的多いのかも知れません。中国人は身体的損傷にも遠慮がありませんから、彼らの言動は、いつもはクスッと失笑の対象にもなっていますが、親しく付き合うと悪い人はいないようです。自分の欠点が分かるので、人の立場にも立ち、よく考えた行動や発言が多いようにも感じます。

韓非は、悲劇の人でした。韓非の祖国・韓では彼の書物はほとんど評価されませんでした。皮肉にも、彼の才能を評価したのは、韓の敵国だった秦の若き王、秦王政(のちの始皇帝)でした。秦王政は韓非の著作を読んで、「ああ、余はもしこの人と一緒に語り合うことができたら、死んでもいい」と嘆息したといいます。韓の講和の使者として、韓非は秦を訪れ秦王政と相見え共感を得ます。
ところが、秦王政の大臣・李斯らが韓非の才能に嫉妬し、彼が自分より重用されることを恐れました。そこで大臣は讒言して韓非を入獄させたあと、ひそかに韓非に毒薬を送り、自殺を強要します。のちに秦王政が後悔し、韓非を許そうとしましたが、彼はすでに獄中で死んでいました。秦の孝公の時代に商鞅が法家思想による君主独裁権を確立することになります。

君主は法を定め、それに基づいて賞罰を厳正に行いますが、制定法の権利は君主の専権事項であり、また法の運用・適用に関する一切は君主が取り仕切り、これを臣下に任せてはならないと韓非は主張し、秦帝国以降定着しています。勿論、歴史を経て中華民国、人民共和国に至る今日まで、この法の制定権と賞罰を含む法の運用・適用に関する一切は封建君主の手から建国の父の手によって連綿と受け継がれてきたのです。この間、この国では一度も民衆の手に渡ったことはないのです。
いま民衆の選挙で選ばれた権力者の手に、その権利が移るかどうかの歴史的道程が、手に取るように私たちの目の前で展開されているのです。この中国の政治の現状はそう見えます。

また、日本からの中国進出企業が自らが家族的経営に馴染んできたために悩む人事考課、すなわち現地中国人への仕事に対する評価のことですが、上からの信賞必罰主義が恒常化してきた中国では、そうした慣習に抵抗は少なく、逆に馴染みがあります。日本人の感覚とは、大いにズレています。
                              30「法制権を争う中国の歴史」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/02/25