戸田ゼミ通信アーカイブ トップページ >> 中国名言と株式紀行(小林 章)

中国名言と株式紀行(小林 章)

第38回 四000年を学ぶ中国名言/「上司と部下との理想的な関係」

『いわゆる忠は不忠、いわゆる賢は不賢なり(所謂忠者不忠、而所謂賢者不賢也)』
                                出典【『史記』屈原賈生列伝】
[要旨]主君に対する進言が実は忠誠を装った保身のためであるにもかかわらず、それを賢者の忠告と取り違えて主君が判断を誤ること。
戦国時代、楚国は大国秦と同盟を結ぶか否かで国論は割れていた。反秦派の急先鋒が詩人としても名高い重臣の屈原であり、一方熱心な親秦派が楚王である頃襄の弟であり宰相の子蘭であった。屈原は高潔で有能な知臣として知られ、先代の懐王に重用されていた。子蘭の勧めで懐王が会見のために秦に赴き、そのまま囚われの身となってしまい、屈原は子蘭に恨みを持つ。当然、子蘭は面白くない。そこで、策を弄して、頃襄王に「屈原は法令の草案をいつも自分が作成していることをいいことに、法令は自分がみな作っているようなもので、王は自分がいなければ何もできないと言いふらしています」と他の要人を使って讒(ざん)言させる。案の定、王は激怒し、子蘭の目論見どおり屈原を南方に流罪にしてしまう。司馬遷は『史記』で、この経緯の記述の後に、上記の言葉を記しているのです。

上司と部下の関係が問題です。部下にとって、上司は本当に「賢者」であるのか。自分の窮地の時でも公平に判断し、正しい判定を下してくれるものなのか。はたまた、上司にとって、部下は見たとおり「忠者」であるのか。指示にはいつも忠実に従いはするが、心の底から心服しているのか、もしかすると自分への不満を腹蔵しているのではないか。疑心暗鬼か、狸と狐の化かし合いか。しかし、所詮はひとは自分が一番可愛いもので、他人から悪く言われるのが気分悪く、嫌なものなのです。

中国では、上司と部下の関係は、互いに自己保身の罠に陥りがちです。上司が部下の身になって、有能な将来性を買ってミスを帳消しにしてやるとか、部下に非はないが担当プロジェクトの失敗を自分の責任でもあるとして部下を庇ってくれるとか、日本の会社ではありがちなことでも、まず中国ではお目に掛かることは少ないでしょう。それは、部下の責任を下手に庇ったり、将来の道を遮らなかったりすると、自分の地位自体が脅かされ、自らの将来に汚点が付いたり、無能と判定され降格の憂き目に合う恐れがあるからです。

また、部下の側でも、簡単に自分の非を認めてしまうと、そこで道が閉ざされた上に、処罰を受けなければならないと考えてしまうからです。部下の側は、あの手この手でミスを帳消しに掛かろうとしますし、ダメと観念しても、まだ同僚の足を引っ張り、ミスの原因を彼に押しつけられないかと画策さえします。もはや万事休すでも、最もらしい言い訳に徹し、自らミスをゲロするようなことにはなかなかなりません。往生際が悪いようにも思われますが、ミスを素直に認めてしまうと非難が自分一人に集中し、飛んで火に入る夏の虫で、それこそ無能の烙印を一人で背負わなければなりませんし、最近の中国企業も有名民営企業ほど能力実績主義が徹底しており、寛容でもなくなってきています。
この場合、部下は、在籍することによほど価値と未練のある職場でない限り、辞することも厭いません。それは、上司とのこれまでの良好な関係があっても、処罰の辱めを受けるよりは、自らの面子を保つために辞めざるを得ないと考えるのです。

「アザラシのジレンマ」というものがあります。寒空にいる2匹のヤマアラシというアザラシは、体に鋭いトゲがあり、お互いに身を寄せ合って暖め合いたいが、針が刺さるので近づけないという寓話がもとになっています。上司と部下との関係は、将にそんなカンジです。

但し、心理学的には、上述の否定的な意味と「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもあり、両義的な用例が許されています。上司と部下の関係には、丁度良い距離感が築かれれば、相互にハッピーでいられます。仕事が終われば、自分の時間に戻れるのです。温かい家庭や部屋があります。
日本でのように、仕事が終わってまでも、上司や同僚と一緒に居酒屋で一杯なんて関係はありえません。
                            19「上司と部下との理想的な関係」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/01/12