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中国名言と株式紀行(小林 章)
第29回 四000年を学ぶ中国名言/「良き老年を送るための処方箋」
『寿ければ則ち恥多し(寿則多辱)』
出典【『荘子』天地篇】
[要旨]長生きすると、受けなければならない恥辱もそれだけ多くなる。
ことわざに「命長ければ恥多し」があり、その典拠となったのがこの名言。ただし、荘子的なひねりとして、次のように寓話は続きます。
中国神話時代の聖王・尭が地方視察で立ち寄った先で、国境警備の番役人が王の長寿と富、男児の出生の祈祷を申し出る。ところが尭は「男の兄弟が多いと争いごとの心配が多くなり、富が増えればそれを守り失うまいとして煩うことが多くなる。また長生きしたらしたで、世の辱めに遭う機会がそれだけ多くなる」といったのが、先の言葉です。
それを聞いた番役人は「貴方を聖人だと思っていたが見損なった」と次のように語ります。「男の子が多くても、それぞれの天分に叶った道に進ませれば、何も心配する必要はないはずです。また、どれほど富が増えても、それを人々に分け与えれば、煩わしさなど増えるはずがない。それに、世のよしなごとを超脱して、悠々と無為自然の生活を楽しむなら、長生きしても世人から辱めを受けるなんてことはないでしょうに」といって、王の前からすたすたと立ち去ったといいます。辺境の番役人こそ荘子そのもののようです。
寿(いのちなが)いとは、現在の総高齢化と共に喜ばしいことばかりでも無いようです。
老齢に達して煩わしき「世のよしなごと」とは、意味としてはつまらないこと、取り留めのないことに当たりますが、活力にあふれた若かりし頃には、何でもなく片づけられたり、やり過ごせたことでも、つい億劫になったり、変に引っかかり、気になりだすことで発生するものです。やはり、老齢から来る新陳代謝の能力の遅れに起因する事態だともいえるでしょう。結果として、様々な身体能力の衰え、記憶力の減退、俊敏な心のバネの不具合が出現しているのです。
ひとは年輪を重ねてもなお失敗が多いのは、それなりの理由があります。
先ず一つ目は、ひとは青年でも壮年でも、はたまた熟年でも、老成しても、その人本人にとっては初めての青年時代であったり、壮年であったり、熟年老年を経験せざるを得ないからです。老年を迎え、一見、ヒゲも蓄え人生経験豊富に見えても、その人自体は「老年」については実は初めての経験に当たります。
すると、やはり、優れた先達に学ぶべきことは多い筈です。その年齢に達するまでに、心も体も準備活動が必要なのです。小学校の体育の時間を思い出せば、跳び箱でも鉄棒でも最初から飛べたり回転できた人は少ないでしょう。
次に、たとえば「老年」を、ひとはそれまでの人生経験の延長線上と見てしまいがちだからです。そう見ると、誤る可能性が高くなります。第一に身体条件の衰えが顕著となっています。また、連動して頭脳の記憶活動にも断線やショートが発生してくる場合があります。さらに、感受性やこころの敏捷性に遅れが目立つようになります。
約60兆個とも言われるヒトの細胞の新陳代謝が、青年の頃と比べ、年齢と共に遅れていき、時間の感覚は時計の進行を、逆に早く感じだします。それは私たちの身体の代謝速度が次第に時間の経過に追いついて行かなくなるからなのです。これが、いわゆる「老化」です。「光陰矢の如し」とは、とりわけ老齢者の時間感覚そのものです。
「世のよしなごとを超脱して、悠々と無為自然の生活を楽しむなら、長生きしても世人から辱めを受けるなんてことはない」と荘子的な言辞が述べられていますが、それが現代の老人達の良き道を指し示す処方箋や解決策となっているでしょうか。
「超脱」も「無為自然」も、子どもの頃に真似た忍術の技よりも高等技術のようです。
俗世間から脱するといっても、凡人にはなお迷いも多くあります。「自ら然る」とは、ネイチャーでも「何もしないこと」でもなく、自ら万物はみな道を内在しており、その本性に従って教化されていくという意味で、念力のような相当の集中力を伴いますが、なかなかに難関に思えます。ちょっとやそっとの修行では辿り着ける境地とはいかないようです。
してみると、老荘思想は老齢者の生きる指針や良き老年を送る為の解決策になっているというよりは、何かと煩い多き老齢者の慰みとなっているというべきでしょう。
老年は、次に来るひとの「死」という休息に向かって潔い準備をする多忙な時期です。
何故ならば、ひとは「死」を前にしては、誰しも「持たざる平等」に帰ることを実感しなければならないからです。
15「良き老年を送るための処方箋」
注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。
2012/12/27