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中国名言と株式紀行(小林 章)

第15回 四000年を学ぶ中国名言/「人物像から人物観へ」

『威ありて猛からず(威而不猛)』
                                   出典【『論語』述而篇】
[要旨]高圧的態度ではなく、穏やかな人柄が醸し出す広い度量としての威厳の大切さをいう。
孔子は君子の条件の一つとして、この言葉を取り上げています。威厳があるが、人を威圧したり、押しつけがましいものではなく、その人の内から醸し出されれる気品、厳かさ、人徳、人としての重みといったようなもの。また、周囲の人がそれと認めるものだ、ということのようです。弟子から見て、孔子自身もそのような人であったようです。

ひとの軽重はなかなかに計りがたい度量の一つです。
さきの孔子は、別のところで「君子重からざれば則ち威あらず」とも述べています。やはり軽々しい人は君子も務まらないのです。
中国では、若人(わこうど)のことを「年軽人」と言います。この場合の「軽」は年齢の若さのことですが、ほかにも若さ故の経験の無さや粗野な振る舞い、薄っぺらい言動なども派生的に考えられるでしょう。

ひとは、若さにかまけて、自分の思いこみや勝手な行動で、つい勢いだけで突っ走ってしまうことがあります。それがまた、若さの特権だとも言われます。
それに対して「重鎮」と呼ばれる人は、自ずから醸し出す気品や威厳があり、また周囲の人々からも一目置かれる存在です。

最近ではこの「重鎮」でさえ、社会の重要なポジション争いにおいて、若者の社会進出の道を塞ぐ存在として煙たがられる立場に置かれています。言うところの「老害」です。
中国政界でも、近頃「重鎮」による院政を廃するために定年制が導入されています。チャイナ7とは、中国のトップの座に君臨する7人の「中国共産党中央政治局常務委員」のことです。つい最近まではチャイナ9でしたが、今回2人減ってチャイナ7となりました。中国の重要な政治的決定は、この7人の合議制で決められています。多数決で決めますから奇数人でなければなりません。

いわゆる中国の現在の「君主」は、一人とは限らないわけです。
チャイナ7の相互監視、相互牽制によって国益に叶う人物かどうかの度量が計られています。不的確な言動、たとえば軽率な振る舞い、私財の蔵蓄に励む、怪しげな人間関係の構築、などなど勘案されて、相応しくないと互いに判断されれば、5年後の人事で降格・入れ替えの憂き目に会うことになります。

「虎の威を借る狐(きつね)」という喩えもありますから、かつての重鎮が「虎」なら、その後ろ盾によって「威」を唱えることもできた時代は過去のものとなりました。すると、現在の中国の政治体制は、表現は悪いが、狐だらけの体制であるともいえるでしょう。

「威」とは、自他共に認める価値観であり、人徳の高さでもあるでしょう。軽くあってはならない、ズシリと重みのある、そういう人物像を思い描いてみますが、どうもつかみ所がありません。写真のシャッターのように像を結ぶことができないというならば、この「威」なるものとは、どう解釈すべきでしょうか?

私が思うに、きっとそれは「像」として印画紙の上に固定・定着できるものではなく、ひとの「観相=在りよう、在りざま」として見なされるもののようにも思われます。「威」の像を具体的に追いかけようとするから、分からなくなったり見えなくなったりするのです。「威」を、よく目を凝らして素直に見つめること、観察することから辿り着ける境地ではないでしょうか。
                                                        8「人物像から人物観へ」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2012/11/29