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中国名言と株式紀行(小林 章)
第7回 四000年を学ぶ中国名言/「儒道兼ね備える」
『頭を蔵して尾を露わす(蔵頭露尾)』
出典【『帰潜志』】
[要旨]一部だけを隠して他の部分が露見していることに気づかないこと、またその浅はかさのたとえ。雉が難から逃れる時、頭だけを草むらに突っ込んで全身を隠したつもりになっているが、その長い尾が丸見えであることに気づかない様子のこと。日本でも「雉の草隠れ」「頭隠して尻隠さず」という。
かくれんぼで「頭隠して、尻隠さず」と言われ、小さい頃恥を掻いた記憶があります。
この諺は宋代の詩人孔平仲の詩の一節で「人を畏れるは自ら蔵頭の雉に比し/世を避けるは今蛹となる蚕と同じ」と続く老荘的情緒の詩句だそうです。なかなかに深い諺です。
普段、晴(ハレ=公、正式)の場では純儒(純粋な儒者)であることを志す若い青年の振る舞いが、内心や褻(ケ=普段、家庭内)の場では、つい道家思想に身を委ねてしまっていた。ある時、そのことが露見してしまい、普段の謹厳実直ぶりとの落差から「蔵頭露尾」とからかわれてしまう。彼の赤くなった顔が思い浮かぶようです。
こうした「儒道」兼ね備えた中国人の生き方には、同感の意を禁じ得ません。
儒家に鍛えられ、老荘に癒されることがなければ、ひとは、いまの世の中では、なかなか渡ってもいけません。
一人では「龍」と称される中国人も、社会の荒波に揉まれ、組織の中では実力を発揮できずに埋没の憂き目に晒される場面も多くなります。
そうすると、本来「龍」であったものも、昼間の失態を胸に帰宅し、夜の都会の寂しい一室で、隠遁者のような孤高の時間でも持ち合わせない限り、精神の均衡を保てないことになります。幸い、中国人は「家」と名の付くところに愛着があります。
自暴気味で弱気の自分も、パソコン画面に向かえば、世を儚む世捨て人のような台詞が自然にあふれ出します。俺のせいにばかりしたがる上司、俺のやりたい仕事でもない不条理な仕事、押し付けられてばかりで俺の立つ瀬は危うい、この社会はどこか間違っている。
首尾よく「蟻族」(一定区域に群居する低収入層の大卒生)になるのは逃れたものの、薄給には違いなく、どこかやるせない思いを募らせる新人の社会人現象です。
その「尻尾を掴む」とは、意地の悪い言葉です。彼(か)の恥を、まるで鬼の首でも取ったかのように言い立てるのも詮無いことのように感じます。
かように、中国社会では、いくらその人に非が認められ浅はかだったとしても、彼の周縁を一度眺め渡してから、罪状を告げます。過剰に追い詰めないで、相手の出方を待つのもルールです。
そうしないと、いくら正義感に駆られていたとして、ひょっとして彼の影に在る虎の尻尾を力任せに踏んでやしまいか、と疑って掛かるくらいでないと、後から後門の虎にとんだしっぺ返しを喰らわせられる可能性があるからです。
ああ、怖い怖い、君主危うきに近づかずだな。自分にだって多少の落ち度が、よくよく考えてみれば認められるじゃないか。ブツブツ言った独り言を、他人に見咎められて「とうとう尻尾を出したな!」と言われてしまう不幸というものもあるのでしょうか。
常に周囲の目を気にしての生活を強いられてきた者にとっては、秋の夜長など寂しくも感じるが、駆け込める家庭の暖かい窓光も遠く、のびのび一人の空間を感じられて、またぞろ遁世思想が「尻尾を出す」が、堅固な鉄門の内にあり周囲に人気は無し、許容されるひとときの喜びか。
4「儒道兼ね備える」
注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。
2012/11/13