戸田ゼミ通信アーカイブ トップページ >> 散歩しながら(ぼうちゃん)

散歩しながら(ぼうちゃん)

第94回 またひとつ

人間は生きている以上いつかは死ぬものです。
老いということは体の中に
死の要素が多くなって来ていることです。

その死までの変化をかかえて生きるのが
人間が生きているということ、
ですかね。


落語家の
談志が死んだ。

この人は私が高校生のときに
落語にはまったきっかけになった
現代落語論という本を書きました。

それまでも子供のときから
ラジオで落語を聴くのが好きでしたが

ちょっと小生意気になったときに
読んだこの本は
落語にさらにのめり込んでいく
きっかけになりました。

それ以来
ラジオテレビでやる落語を
テ-プに録っては聴いていました。

中でも談志の落語は新鮮で
何度も聴くうちに覚えてしまい
物真似が出来るくらいでした。


談志と童謡。

談志は童謡が好きで
本も書いています。

松岡正剛さんからの受け売りですが
童謡にはちゃんと大人の贖罪が
あるからいいのだと言っています。

この、童謡のなかに贖罪を見ているところが秀逸です。
日本のすぐれた童謡は、
子供の発想ではなく、
大人が子供に戻ってつくっているという。

「あの町 この町 日が暮れる 
いま来た その道 帰えりゃんせ」。
こんなことを子供は発想しない。

そこで大人が歌ってあげる。
一抹の苦味がある。悲しみもある。
それを言葉にする。
そこがいいのだと言う。


「叱られて」

大人が子供にちゃんと同意を求めているという。
「こうなると寂しいよね」と同意を求めている。

勝手に大人の歌にしているのではないし、
勝手に子供の歌をつくっているのでもない。

そのうえで、子供を丁重には扱わない。
ダメなところはダメを出す。
失敗は失敗だと言ってやる。


「カラスなぜ泣くの」

白秋・雨情・八十の時代の童謡は、
そういう子供にとっても
困るような詩をつくってみせていた。

それがいまはない。
大人たちもそのころは
その疑問が解けなかったことを、
しっかり童謡にしてみせたわけだった。

「カラスなぜ泣くの」は、
そんな寂しいこと、大人でも答えられない。

それを大人と子供が一緒になって
西空を見ながら、考えている。
そういう童謡になっていると言う。


みごとな童謡の解釈です。

勝手気ままな印象の噺家でしたが
またひとつの時代が終わったと感じます。

2011/11/25