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散歩しながら(ぼうちゃん)

第86回 いつか白鳥に

自分を高めようとする部分と
もう一つは、自分が置かれた状況において
できるだけのことをしようとする部分。

人が生きていくのに、
われわれは大きく分けると
この二つの部分から出来ているような気がします。


自分を高めようと思うのは
ふわふわとして心ここにあらずという時

落ち着きがなく決断力に欠けるとき
上半身に気がたまっている状態で、ボーっとしているとき

いわゆる意識が今ここにない、
地に足がついていない状態の時です。


こんなときには自分の足に意識を持っていき
今ここにいることを感じることで
自分を高めようとします。

 

これは自分である程度は何とかなりますが
二つ目の自分が置かれた状況は
自力ではどうしようもなく

氏素性とか持って生れた能力のなかで
出来ることだけをするしかありません。
つまり一所懸命です。


一つ目の努力次第で何とかなることは
何時何処でも、幾つになっても
その気さえあれば始められる可能性がありますから
私でも重い腰に鞭打つことだってあります。


「お金持ちになりたい」「成功したい」などなど、
私たちはさまざまな理由と目的をもって
仕事をしていると思います。


その志や願望はみんな同じはずなのですが、
その志どおりになれるかどうかは、

自分自身がどれだけ強い信念をもって
その仕事をするか、しないか、に尽きるでしょう。

そして、そうなるために、
日々、努力を惜しまないことしかないのですね。


出世する人は、みんな白鳥だといいます。
表面は優雅に見えても、
水面下で努力し、行動をしているのです。

先日書いたイチロ-や羽生名人などは
優雅に見える格好の良い白鳥なんでしょうね。

 

テレビは下らないものが多く
芸無し芸人と味音痴の番組ばかりだと
邱さんが怒っています。

邱さんみたいにインテリで食通の人には無理もありませんが
近頃私が見たもので中には光るものもありました。

芸人がサイコロを振って
目が出た人が面白い話をするというものでしたが

間髪を入れずに確信を持って話し始める
その能力の凄まじい高さに呆れて見ていました。

彼らは芸人ですが、まるでアスリートでした。

私は落語が好きで若いときから聴いていますが
落語の笑いが帰りの電車の中で思い出して

笑いがこみ上げてくるようなものだとしたら、
サイコロ芸人のそれはボクシングの殴り合いのようでした。


笑いの種類は違うし好き嫌いはあるでしょうが
もし10年、20年この笑芸が生き残っていたら

中には何人か達人として
名を残すかもしれないと思いました。


ただし、長年落語のフアンとして
聴いてきた者として言えば

笑いの迫力は、
その人の抱える闇の深さに
比例すると考えています。

闇の暗さを光や輝くものに変える
魔術に長けた人だけが到達できるものなのです。

芸というものの本質だと思います。

 

下らない能無し芸無し芸人だと
邱さんに罵しられていますが

サイコロ芸人の中に
いつか白鳥になる人がいるかも知れません。

2011/10/18