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散歩しながら(ぼうちゃん)

第62回 自意識過剰

自意識というものは
こういうものかと自覚したのは高校生の頃でした。

自転車で町を走っていたら
向こうから女学生が集団で
歩いてくるのに出会ってしまったことがあります。

その道にはこちらからは私だけ、
向こうからは彼女たちの集団だけ、
他には誰もいません。

そのときの私の気持ちがどんなものだったか。
はたしてどんな顔をしたらよいのやら、
どんな格好をして自転車を走らせたらよいものやら

日常の基本の動作が分からなくなってしまう
ほどの動揺でした。


何をそんなことでと
今の若者には笑われるでしょうが
事実私はしたたかに動転し
しかも自意識過剰という
精神状態をしっかり体験したわけです。


若いときは
誰でもコンプレックス(容姿も含めて)が多々有りますが、
日頃一番に意識している
女性というものを目の前にして
過剰な精神状態になったというわけです。


ある時、
叔父にこう言われて随分楽になりました。

「お前、随分自意識過剰だな。
誰もお前の事なんか見ちゃいないよ。
安心して外歩け」

この叔父は血の繋がりはない
二十も年上の人ですが
私の少青年期の恩人です。


外見に限らず内面にも言えることですが、
誰かが自分の事をどう思っているか、

どう評価しているかを考えても分かるはずが無いので、
時間の無駄だと叔父は私に言って聞かせてくれました。


私の問いに間髪を入れずに答えたところをみると
叔父もまた青年期に私と同じことを
思い悩んだクチだなと、
後年叔父が死んでから納得がいきました。


この叔父はなかなか一刻のところがあり、
私が大学生のとき、

夏休みにビ-ルを提げて訪ねて行って
叱られたことがあります。

飲みたい気持ちだけで来れば良い。
余計な気を使うなと言うのだ。

また、叔父は友人に何かをあげた時
すぐに礼を返されたときにも怒った。

ひとから何かを貰ってすぐに返したら、
それは義理になってしまう。
それでは友達ではない。

すぐに返せば本人の気持ちは楽になるが、
歯を食いしばって我慢してこそ友達なのだという。

何という因業な理屈だろう。
しかし、私はこの叔父と酒を飲むのが好きだった。

酒の飲み方を教わった。
浮世離れした叔父といっしょにいるのは
とても居心地が良かった。

そんな関係でした。

最近作家の伊集院静が
阿佐田哲也こと色川武大をモデルに
いねむり先生という小説を書いて
売れているようだが
私にとっての人生の師は差し詰め

この叔父貴ということになります。

 

自意識について書こうとして
つい叔父のことになってしまったが
こういった道草は叔父のもっとも好むところ
命日に近い季節のことゆえ許されよ。

 

百年生きてもいいときわずか

春も晴れた日それほどないぞ

逢うたからには一杯やろう

聞いてくれぬか王維のあの詩


あの詩とは

陽関を出ずれば故人無からん

という別れを惜しむ詩のことです。

2011/07/05