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散歩しながら(ぼうちゃん)
第56回 終わりと始まり
近道へ出てうれし野の躑躅(つつじ)かな 蕪村
…偶然近道に出てちょっと嬉しい、
しかも周囲には野のツツジがあった
という意味の句ですが
何の変哲もない句も
こんな気分の時には心にしみるものです。
さっそく私も駄句をつぶやきます。
午後の土曜手ぶらで歩く白木蓮 齊
土曜日、半日の仕事を終えて
ふらりと散歩に出たら
小学校の校庭に咲く白木蓮。
何とも言えない幸福感。
余裕と開放感。
私の気分と校庭に咲く花。
蕪村が野のつつじに感じたうれしさと気持ちは同じです。
近道と手ぶらの言葉がそれぞれの句のポイントで
うれしさを表現できたわけです。
この言葉こそ句の眼目です。
おお、何と。
俳聖蕪村と自分の句を比べている。
大胆不敵か身の程知らずか。
まあともかく
日常のちょっとした何気ない感動は
珠玉の瞬間でありまして
それを積み重ねていけば人生も楽しいのでは。
ええかっこしいで言えば豊かな人生、ということになります。
人生のひとコマに感じた瞬間は
そこから人生が始まるという気持ちになります
「映画の終わりは一つの人生の終わりだ」
そして終わりから始まるのだ。
と誰かが言っていました。
私もそう思います。
よい映画を見たあと
よい本を読んだあと
たしかに一つの人生が終わり
また人生が始まるといった気持ちになります。
いい映画を見たあとは出来るだけ
歩いて家に帰りたいと思うわけで
土曜日だったら
町の居酒屋の暖簾をくぐって
二、三本チビチビやって
今見てきた映画のこと、
己の行く末のこと、
とりとめもなく思ってみたい。
そこで鞄から取り出しまするは
吉本隆明の悪人正機という本でございます。
生きるって何だっていえば、
生きることの大事さに比べたら、泥棒するということは、
人間の作った約束事のひとつにすぎないわけで、
きっかけはいろいろあっても
泥棒して食ったっていいんだぜ、
という重たい言葉を投げかけてくれます。
奇を衒った言葉ではないというのは、
頭だけじゃ駄目、手を使わなくちゃ何も出来ない、
と本気で言ってることで分かります。
たとえば、あの夏目漱石は
帝大の英文科に夏目がいるとか言われたくらい
知られた大秀才だったが、
一年間全く勉強しないで落第して
無茶苦茶をやっています。
その一年がなかったら小説なんか書かなかったろうし
学者か官僚で終わったでしょうが、
その一年で何か(鈍)というようなものを悟ったのです。
きっと。
居酒屋で
お銚子三本目に
今日の私の人生はここまで。
月夜の晩にふらふらと
家路に向かう
私の人生はまた始まる・・・かな。
2011/06/13