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散歩しながら(ぼうちゃん)

第50回 かげろうみたいに

人が死んだら、やはり悲しい。
だが
時が過ぎていくにつれ
「去っていった者は、だんだん煩わしくなるものだ」
という古いことわざのように忘れていきます。

口では「悲しい」とか「淋しい」など、
何とでも言えます。
でも、死んだ時ほど悲しくないはずです。

友達や家族との茶飲み話にも、
ゲラゲラ笑ったりしている。

骨は、
菩提寺に埋まっており、
たまに思いついて事務的にお参りをします。

普段はほとんど、どこの墓石も、
夕方の風や、
夜のお月様だけがお参りしてくれているだけです。


死んだ人を懐かしく思い出だすときがあります。
しかし、その人もいずれ死にます。
また昔に死んだ人の話を聞いても
ちっとも面白くも何ともない。

そのうち、誰の供養かよくわからなくなります。
最終的に墓石は放置されてしまいます。

人の死とは、
毎年咲く花を見て、
感受性の豊かな人が
何となくときめく程度の事のような気がします。


それでいいのでしょうね。
もし命が永遠に漂っていたとすれば、
もうそれは人間ではない。

忘れ去ることが良いのかもしれない。
人生は幻のようにはかなく、
未来は予想不能だから意味があるのでしょう。

それに長く生きた分だけ
恥をかく回数が多くなりますからね。

長生きをしたとしても、
その時代の平均寿命で死ぬのが
見た目にもよいでしょう。


天才や美女たちは見事な消え方をしています。
モ-ツアルト 、 、 、  、マリリンモンロ-、夏目雅子。

われら凡人はそうもいきませんから
まだこれからもあくせく
欲を出しもがきなら生きていきます。


この世に生きる生物をみると、
人間のようにダラダラと生きているものも珍しいです。
かげろうは日が暮れるのを待って死に、
夏を生きる蝉は春や秋を知らずに死んでしまう。

ダラダラ寝転がって
本など読みながら思いついた
下らない雑感でした。

日が暮れそうですが
かげろうみたいにまだ死ねません。

2011/05/23