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中国名言と株式紀行(小林 章)

第141回 四000年を学ぶ中国名言/「義というコスモワールド」

『義を見て為さざるは勇なきなり(見義不為、無勇也)』
                                   出典【『論語』為政篇】
[要旨]正しいことを断固として行うことが真の勇気だ、ということです。
『論語』為政篇の一番最後の孔子の言葉として置かれています。
「子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不為、無勇也[子曰わく、其の鬼(き)に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)いなり。義を見て為(な)さざるは勇なきなり]」
ちなみに、この為政編には『論語』で最も有名な「子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩」が同時に収められています。この言葉は、人生如何にあるべきかを知る手立てとしてよく引用されますが、本来は孔子の我が人生を振り返り考察しての感慨のようなものでしょう。
普通の人には、簡単にはとても及ばない境地ですので、心すべきでしょう。

孔子の30歳台までの人生は、考えてみれば惨憺たるものでした。
劣悪な生育環境にあっても、それでも、まず15歳で「志学」して、孔子は自身を奮い立たせたのです。また、その姿勢を生涯貫いたともいえるでしょう。なにしろ、名も地位も、財産家の嫡子として生まれたわけでもないのに、この「志学」のみが孔子を非凡な人に押し上げてくれたのですから。
現在の中国内陸部の貧村では、いまでも教育のみが貧困から脱する唯一の方法だということが信じられており、学習に秀でた子弟への援助が村を挙げて行われています。
後に、孔子は一時、小国とはいえ定公の治世の魯の国の大司寇という宰相の地位にまで登りつめ大成功したのです。大司寇という宰相の地位は、恐らくそれまでの魯の政治史では三桓氏という皇族の血を汲む貴族にしか与えられたことのない地位であったようです。

一説には、孔子は下級の貴族の生まれとされますが、それは後世の作り話の域を出ませんし、生まれは庶子、つまり妾の子で、父は老年男性で、母は巫女のような若い女でした。親族がこの女の生活を心配して、少し財産を築いていた老齢に近い軍人の男の家に妾として入れさせたと考えられます。父は子は儲けたものの女の所には寄りつかず、家庭は母子家庭で貧乏し、周りの家の援助でかろうじて生活できていたようです。幼少時から孔子は生活のためには、仕事であればどんな仕事にでも就き、その結果多芸に秀で、何でも器用にこなせるようになったと自ら述べています。
こうした境遇の人間が、当時15歳で学業に志し、30歳で独立するには並大抵の努力ではなしえなかったと思われます。しかも、孔子は結婚をし、一子を儲けますが、生活は破綻し、妻とはすぐに離婚し、後年息子は孔子よりも先に亡くしてしまいます。
こうした孔子の境遇を『論語』の言葉に重ね合わせてみるとき、言い慣らされてきた孔子像とは、別の見方が成り立つように思われます。

「義」という言葉も難しいことばで、あらためて辞書を見てみると、(1)物事の道理に叶うこと、と最初に出ています。この「道理」とは、また難しい言葉で、物事の正しいすじ道、人として行う正しい道などと解釈されています。すると、この場合、義=道理となります。
また、次に辞書には、(2)人の守るべき正しい道、と出ています。「徳」という言葉と被ります。「正義」といってもよいでしょう。さらに、(3)他人と名義上の関係を結ぶこととあり、これは義理や義侠ということでしょう。血いんを結ぶということも言ってよいかも知れません。また、(4)意味、わけ。理、すなわち「ことわり」と続きます。

孔子の述べた「義」の意を知るには、この4番目の解釈が妥当ではないかと思われます。
この「義」とは、私たちの行動の発した「意味」や「ことわり」を探る言葉ではないかと思います。私たちの行動や行為には必ず意味があります。この「意味」が正しければ、それが「義」の道であり、道理が通っていることになります。

古代中国では、祖先やその神に儀式で羊を殺して「我(のこぎり)」できちんと切り分けて供物として祭壇に捧げる行為が「義」そのものであったとされています。真心を供物である殺した羊に託して恭しく捧げる有り様を「義」ということから、正しい振る舞いや作法、転じて、人として行う正しい道理や正義という意味が派生したものと考えられています。

上記の孔子の言葉は、どちらかといえば「正しい行動や行為」という意味合いが強いように思われます。
前後の文脈からすれば、自分に連なる祖先や神以外の神を祭ろうとするのは、すなわち「諂(へつら)い」だと言ったあとに「義を見て為さざるは勇なきなり」と述べています。
「諂い」は、おべっかとか媚びる、おもねるということです。正しい行為は勇気を持ってやるべきだ。媚びたりおもねる行為は正しいやり方、すなわち「義」ではないと孔子は言いたいのかも知れません。

孔子より前の時代の『老子』には「義」とは「君臣上下之事也、父子貴賤之差也、知交朋友之接也、親疎内外之分也」と具体的に述べられており、君臣や上下の職務に関係し、父子貴賤の差別に関係し、知人友人の交際に関係し、親疎内外の区分に関係し、目上の者が下の者を適切に処遇し、下の者が目上の者に適切に仕える、その作為と目的を持って行われる適切な関係の在り方だと述べられています。

よく知られているように孔子は「仁」を重んじましたが、この言葉は私や我から発して父母、家庭や家族、血縁から義の世界へと広がり、近隣社会や地方国家、天下を統一する国家へと広がっていく概念です。その概念を端的な言葉で表したのが「修身斉家治国平天下」でしょう。
孔子の生い立ちや生涯を振り返り見てみると、立ち返るべき幸せな家庭や家族はどこにも見当たりませんが、それでも、自分に流れ込み自分から発した血縁を無視することはできませんでした。むしろ、孔子は理想の家庭や家族をただ夢想していたのかも知れません。そのために孔子は、他者に最大限の敬意と真心を尽くし、必死で他者という鏡を透かして自分というものを律し磨こうとしたのではないでしょうか。
前出の『老子』では、この「仁」を「謂其中心欣然愛人也」と定義し、こころの真ん中、つまり真心から発する他者への愛だと言っており、それは他者に幸いがあるのを共に喜び、他者に災いのあるのを共に憎むようなことだ述べています。この「仁」は、先の「義」とは異なり、作為や目的のないものだとも述べています。

「義」は、孔子の没後、儒家を遙かに凌ぐ勢力に拡大していた博愛主義を説く墨家の主要な倫理的な主柱となっていました。墨家は城壁防御の技術的技能者集団でもあり、儒家の家族血縁愛を基調とする「仁」に対抗するために、技術ギルド組織間の絆である「義」を重視したのです。戦乱の続く世の中にあって、非攻、平等、博愛を説く墨翟(墨子)の思想は民衆に人気があり、宗教的な広がりがあったといいます。
その後の墨家の思想は、秦の中国統一による思想弾圧によって一番の打撃を被り、忽然と中国思想史上から消滅してしまいます。その思想弾圧は「焚書坑儒」と言われますが、文士など読書人の間で普及していた儒家の思想だけが標的であったのではなく、民衆に支持されていた墨家も目の敵とされました。もちろん秦帝国の国体の礎は厳格な法による思想統一にありました。
しかし、わたしは「官無常貴而民無終賤(官に常貴無く、民に終賤無し)」と墨翟が主張し、平等主義をこの時代から説いて民衆の間に広く受け入れられたことを考えると、中国人の独特の「平等」観は現在の時代まで保持され続けていると見てよいのではないかと思っています。

話題が逸れそうですが、はなしをもとに戻すと、孔子やのちの墨翟の生きた時代をさらに下って、儒教の再興者である孟子は両倫理の統一、すなわち「仁義」を説くことで生き残りをはかったとも解釈されます。

ある意味、言葉そのものや言葉の意味の解釈に偏りすぎてしまうと、ほんとうの意義を失いかねません。真実や真理は本来、他者との関係や実践の結果でしか確かめられないものです。
しかも、言葉以前に、すでにその意味や意義は長い時間人類の共同体内での共通概念として存在していました。現在でも文字を持たない民族や種族は存在し、人類と近い過去に袂を分かった類人猿も文字という表現の仕方を持ちませんが意思の疎通にはなんの問題もあるように思えません。また、中国漢字圏以外ではエジプトのエログリフ(神聖文字)以外にはほとんどが表音文字の言語圏です。

表音文字の言語圏では、生活を共にする同一共同体内で指し示されるべき共通の意味や概念が存在しているものに、それと指し示す指や腕といった身体部分と赤ちゃん言葉のような声音が合体して文字が形づくられています。始まりはエジプト文字の模倣と音素の組合せによって単語や文になっていったのです。

漢字やエログリフのような表意文字は、その形を見て意味や概念を知ることができます。
漢字文化に馴染んだ人の間違いやすさは、漢字の発明以前にモノの意味や概念が既に長い時間、その共同体内に共有的に存在していたということを、つい見逃しがちなことです。
漢字の考案は、紀元前のいまから2千7百年前の蒼頡(そうけつ)という人に始まると言われています。鳥の足跡を見て蒼頡は漢字のもとを考案したとされています。
また「恬筆倫紙」と言われるように、秦の蒙恬(もうてん)が毛筆を発明し、後漢の蔡倫(さいりん)が紙を発明するまでは、書物は竹簡に刻印された物だったのです。
さらに、8世紀初唐の初めに木版の印刷技術が発明されるまでは、書物は筆記による写本(手書本)でした。
漢字以前に長い言葉の時代が有り、言葉以前にさらに長い指し示された意味や概念だけの音と沈黙の時代があったのです。そして、言葉や漢字の出現は、国家共同体の成立や秩序の維持のためと無関係ではありませんでした。
先の『老子』にある作為や目的のない「仁」や、作為と目的によって為される「義」は、すでに漢字発明以前の古代中国の国家共同体のなかで、言葉と言葉以前の意味や概念として存在し確立されていたと考えるべきかも知れません。

長い諸国放浪の旅から、甲斐無く生国・魯に戻り、すでに引退して弟子の教育にあたっていた孔子の逸話から「義」の何たるかが見えるかも知れません。

孔子が70歳を過ぎた頃、近隣の大国斉で君主の簡公が卿の陳氏に弑殺される事件があり、それを知った孔子が急遽老骨に鞭打って、自国・魯の君主の哀公に斉を攻めるべきだと三度請うたという事がありました。
『論語』憲問篇には「陳成子、簡公を弑す。孔子沐浴して朝し、哀公に告げて曰く、陳恒、其の君を弑す。請う、之を討たん。公曰く、かの三子に告げよ。孔子曰く、吾は大夫の後に従うを以て、敢て告げずんばあらざるなり。君は曰く、かの三子者に告げよと。三子にゆきて告ぐ。きかれず。孔子曰く、吾は大夫の後に従うを以て、敢て告げずんばあらざるなり」とあり、隣国での正道に悖(もと)る事件を知った以上、孔子は身を沐浴で清めて急ぎ朝廷に参内し政道の末席に連なる立場として、君子に隣国での邪道を正すべきだと進言したのですが、哀公は大夫の三人に告げよと言われ、聞き入れられません。仕方なく三人の大夫のもとに行って告げるが、大夫からも聞き入れられなかったのです。孔子は嘆息して、また敢えて直訴して告げたが賛成されません。

弱小国の魯が大国の斉を攻めても勝ち目はないことくらい孔子には分かっていても、それでも言うべき事は断固として言わなければならない、どうあっても邪道は正されねばならないというのが孔子の一貫した立場であり、つまりそれが孔子の言ういう「義」なのでしょう。

                               67「義というコスモワールド」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/11/20