戸田ゼミ通信アーカイブ トップページ >> 中国名言と株式紀行(小林 章)

中国名言と株式紀行(小林 章)

第138回 中国・天津より/中国株日記 (71)

【NO.74】中国、天津より(12)
前回の続きです。

いま国家は、国境と関税制度、および外為制度を守ることによって自国の権益を過度に主張していますが、しかしその根拠は徐々に浸食に晒されつつあります。
国境(出入国管理と検疫)は人と物など、おもには経済的難民と移民の入国制限で国民の職場と住居の確保を守っています。関税制度はおもに物の流れを規制することで税収プラスにも貢献しています。外為制度は物やサービスに付随するお金の海外への不正な流出と流入を規制監視しようとするものです。

人の自由な移動を制限しようとする入管という国境、物やサービスや情報の自由な流入・流出を制限し、税源としようとする税関という国境、お金の流れをマネロンやテロなどと関連づけて制限しようとする外為制という国境は、国民国家の基本とされてきましたが、そうした人・物・金の国境というものが今、本格的なグローバル化の時代には、大いなる阻害要因として立ちはだかっている事実に向き合わざるをえなくなっています。

いま、グローバル化の趨勢を考えれば、国民国家を根拠と基礎とした一国内での経済政策が、如何に有効な効果を発揮できるのか、いささか疑問です。

最近の日本国内でのアベノミックスへの好評価には、私は大いなる疑問があります。
最近読んだ本の中にも「従来方式の金融緩和が続くかぎり、いかに『追加緩和』がなされようと、経済の実体には何の変化も生じない。
しかし、日銀による国債の直接引き受けを認めれば、事態は一変する。
なぜなら、政府は、税制改正なしに、そして市場の制約なしに、いくらでも財源を調達できるからである。
これは、政府にとっては究極の錬金術であり、国民から見れば法律によらずに財産を没収される手段なのである」(野口悠紀雄『金融緩和で日本は破綻する 』)とあります。

日銀新総裁による「新次元」の金融緩和の結末は決して楽観できるものではありません。
政府による安易な錬金術の結果は、膨大な「金あまり」を招くことになります。
この所の急な株価の好転は、こうした未来予測を好感する動きなのでしょうか、いずれにしても十数年から20年にも及んだ日本経済の低迷は株価上昇と市場好転への熱いマグマを貯め込んでいるはずです。

この「金あまり」については、邱永漢氏の様々な著作で指摘がなされていますが、最近読み返した『嫉妬の世の中をどう生きる』のなかでは次のように説明されています。
「ではなぜお金があまるようになったかというと、アメリカ政府が国家財政の不足分を増税で賄わずに、国債に頼る道を選んだからである。財政支出に充てるお金を増税で賄えば、その分だけ民間の消費が抑制されるからインフレにはならない。それを、国債に頼ると、民間はお金を吸い上げられるが、民間の手元に残った国債は財産だから、その財産分を担保にお金を借りることもできれば、借りたお金を消費や投資に使うこともできる。本来なら回収されてしまうお金が、財政赤字のふえた分だけ市場に出回ることになり、金あまりの現象を呈する」(P17-18)

そして、賢明にも邱先生は次の事態を予想されていました。
「アメリカで起こったことは、アメリカからドルをたくさん受け取っている日本やNIESの国々にも伝染する」(P19)ということを。

事実日本では、その後、輸出による外貨稼ぎに精を出した結果の膨大な貿易黒字額と安易な国債の発行によってバブル経済が引き起こされ、バブルの後始末で緊急の膨大な国債が発行され、また停滞する経済の復興と貿易振興のために国債の直接引き受けと円安が故意に誘導されています。「金あまり」やインフレの進行は必至です。
政府により故意に錬金術が発動されて、経済の風向きが変われば、デフレは跡形もなく消えてなくなるかも知れませんが、経済の実態とは関係なく政策的に実施されるインフレ政策で、デフレに交代して沸き立つインフレが2%程度で収まるはずもなく、円安はさらに進み円資産の暴落の引き金を引いてしまうことになりかねません。国の膨大な借金の目減りは、メリットともいえますが、円資産の価値は膨大に失われていきます。それに伴って、国債の格付けは落ち、日本の地位は2流国へと転落していくでしょう。
長期に及ぶ円安局面は、FXなどの為替裁定取引で小金を稼いで喜ぶ主婦達庶民投資家を一時的に喜ばせるかの知れませんし、庶民は株価の高騰を見て高値付近で参戦し痛い目にあうかも知れませんが、市場の喧噪が一段落して気が付いて周りの世界を見渡してみると、円資産の暴落と毀損で相対的な貧乏生活を余儀なくされていたということにもなりかねません。

 

国家の一大イヴェントである選挙の季節が訪れると「政治を変える、国を守る」というスローガンが政治を目指す人達によって叫ばれます。
その「守るべき国家」と声を大にしてまで必要としているのは誰でしょうか。
それは、国家という仕組みの1番の受益者が誰なのかを考えてみれば、よく解るはずです。
国民が受益者だと思っている人はとんだ勘違いをしています。
国家という器には、否応なく徴収できる安定的なお金があります。日本では40-50兆円もの税収があります。このお金に群がる人達は多くあります。
誰が1番に合法的にそのお金の受益者ということになっているのかを調べれば簡単に解ります。彼らはいつも自分たちに都合の良い法律を楯に、国家の枠を少しでも超えようとする者を罰しようとします。いわば法律は魔法の言葉なのです。憲法が魔法の言葉であるならば、魔法はいつか解けるでしょう。軍隊と警察権と法曹権は抑止力程度の近代国家における無ければ具合が悪い程度の維持に大変なお金のかかる仕組みです。

今、現に進行しているグローバルな経済の時代においては、企業は多国籍に事業を展開し、拡大するマネーや経済規模は一つの国家財政をも凌駕する規模にまで巨大化して、それにつれて、もはや政治などの統治機構のグローバル化も避けられないところまで来ています。
様々な分野でボーダーレス化は進行してしまっています。それは必然の帰結で、資本の原理は自己増殖するシステムであるからです。

ボーダーレスな多国籍企業は、資本合理性に支配された企業群だといえるでしょう。そうでなければグローバルな企業競争に負けてしまいます。ですから、最も人件費が安いところで人を雇い、最も製造コストの安いところに製造拠点を設け、最も原料調達の容易なところに流通のハブを置き、情報インフラを存分に活用してネットワークを構築しようとします。そして、もっとも法人税率が適正なところで納税しようとします。企業のよって立つ理念からすれば、きわめて自然で当然のことです。

いずれは、国家の枠組みを遙かに凌ぐ富が国富を超えて、国家機構に圧力をかけるだけでなく、国家機構を脅かす存在となることは目に見えています。すでにアジア金融危機やロシア財政危機が、東アジアの比較的規模の限られた新興国の経済を見事に覆してしまった事実を見ても、もっと大きな経済変化が主要経済国を襲うことだって現実に起こりうるわけです。ギリシャやアイスランド、キプロスなどの小国の国家経済は風前の灯火です。

そもそも、大きな民族を括りとする近代の国民的国家の枠組みがが認定・成立したのは、今から365年前の1648年の独国のウェストファリア条約においてだといわれています。欧州における30年に及んだカトリックとプロテスタント2派に分かれて戦われた宗教戦争が終結し、神聖ローマ帝国は崩壊し、参加した欧州の各有国有力勢力が領土の尊重と内政不干渉を約した領邦国家として認定され、以降独自の主権国家としての歩みを容認しました。ここに近代的国際法の成立根拠が生まれます。
この時以降、欧州に止まらず、国土を持ち、国民を擁し、国家の官僚機構と国軍を備え、固有の言語、宗教、教育、習慣、文化などをもつ民族的な結束に基づく国民国家というものが独自に発達していきます。
理想的な仕組みではあっても、国家の制度にも始まりがあり、それが制定められた制度であるならば、いずれは否応なしに賞味期限が切れる時、すなわち終わりがやってきます。
そして今、私たちは国民国家という制度そのものの終焉に立ち合わされようとしています。グローバルに展開しだした市場経済の原理がその障害となる国民国家や恣意に定められた国境線を骨抜きにしようとしています。

今後はどうしても、そうした国家の枠組みを超えた金融や市場化の波に対抗できる国際的な実効力のある新たな仕組みが必要となるでしょう。
現状の国際連合のような実効に乏しい、旧戦勝国側の影響力を残す形式的・差別的な仕組みではなく、包括的な権力機構がなければ規制は無理でしょう。何しろ国連は参加する100以上の民族的国民国家を前提とした緩やかで御しにくい合議的組織機関でしかありません。いずれ国連は発展的解消の方向に向かうのかも知れません。
もはや富の偏在やそれに派生する局地紛争や民族間の争い、宗教対立に対応し切れません。ひと時代前には理想といわれた民族的国民国家ではありますが、もはやそれも解体は免れず、早晩ローカルな地位に甘んじるべき時が近づいているのです。

資本経済の法則に従って人的資源の偏在により民族の移動が進み、自国民の移動の自由を制限するのは、もはや北朝鮮など限られた独裁国家のみとなっています。
また、国家を超えたボーダーレスな仕組みは、欧州連合(EU)のような新たな統一国家や緩やかな枠組みを生んでいますが、他方移民流入を防ぐ防波堤とも見なされ、とても十分などとは言えません。
しかし、たまたま私たちは先進国である日本という国に生まれた国民となり、欧米先進国の人々もそうなっていますが、まったく偶然にその国で誕生したということだけで、豊かさという大きな既得権益を享受しているのです。先進国ほど国境と法制の高い壁によって、貧しい国の人々を貧しいままに止めようとしています。普通に考えるならば、彼らにも移動の自由と経済など様々な機会の平等を保障しても良いはずです。
また「愛国心、愛国だ」なんぞと気勢を上げるのは、右翼と一時代前の体制派や伝統主義思想の傾向だけですが、所詮は故郷愛や郷土愛と呼べるものの一変種と思えます。違うのは嫉妬と報復と差別意識に彩られているということです。戦いと憎しみ合いの先には世代交代があり、いずれ時間はかかっても記憶も忘却の流れには抗うことは出来なくなるでしょう。上塗りされた国策意識のペンキはいつか剥がれる時が来るでしょう。
しかし、誰にもケチの付けられない郷愁というものは確かにあります。特に、海外で暮らしてみればそのことがよく解りますし、それを国家の教育の根幹に据えようとするような時代錯誤は退けて、個々人の心の問題としてそっとしておくぐらいで十分じゃないかと思うのです。石川啄木もふるさとは遠くにありて思うもの、と歌っているとおりです。

拭いがたいグローバル化やボーダーレス化への1番の抵抗勢力は、国家の枠組のなかで多くの利益を得ている共益者だけです。いまや経済格差のために流れ込む経済難民を押さえ込む役割が強力な先進国家権力の根拠となっています。器のなかの国民は、そのボーダーに対して、土地に縛られている農民など以外にはそれほどの矜持も執着もありません。もうそろそろ、みなが気付くべきです。

国家の歳費に大きなウエイトを占める社会福祉費用などは、所詮は愚民を惑わすテイのよいコストの比較的安く済む集票システムです。一人ひとりに行き渡る受益額はほんの僅かですが、それが効果テキメンなのです。しかし、一度始めてしまえば止められない重いくびきとなります。
しかも、その分け前を巡って醜い争奪戦が繰り広げられています。
当初はコストの低い社会福祉、とりわけ社会保障であったはずなのですが、この所は国の負担が増え続け国庫を圧迫し続ける財政不安要因ともなってきています。
ありていにいえば、やはり受益者側の「たかり」的傾向が止まることを知らない段階にまで来ているということなのでしょう。
また、公的年金や医療保険や失業保険などは合理性と効率を追求しない国家が運営しようとするので収拾がつかなくなったり、非効率な運営の実態が露呈してしまうわけです。
それでも、その運営が上手くいっているかに見えた時期には、集票基盤も機能していたのです。厚生官僚も数代にわたって安泰でしたし、様々な利権のお零れにも預かることもできました。
福祉のなかの社会保障に至っては、税の仕組みを使って所得の再配分を行う福祉の要のような制度となってしまいましたが、実態は国家が管理監督者となって受益者に麻薬を与え続けるようなもので、国家もその毒からは逃れることはできません。その毒は蔓延し続け、その毒にやられて麻痺状態で適切な判断ができていません。
もともと自分たちが支払った税金や上納金からのこれらの僅かな還付(受益)額でさえ、収支が逆で常に財政の逼迫を理由に切りつめられようとしますし、それに抵抗感があれば、では税金を上げざる終えないと、今度は不安を煽った上に国民を脅すわけです。
さらにその付けを、政府は企業にも負って貰おうと、非正規社員の正社員化と定年を60歳から65歳へ、さらに70歳や終身にまでもっていこうとしているようです。社会年金や保険の支給年限が切り上がれば、その空白を限りなく企業に埋め合わさせるしかないからです。
自分たちの意図を隠し封じて、税徴収の増額を簡単に正当化できる。こんなシステムの仕組みにももう気付いても良さそうです。こんな子供騙しのシステムは止めさせるべきです。

こんな程度の福祉の美名の下での受益額なら貰わずに、個々の国民の積立金は返納して貰った上で、公然と年金受領は拒否し税金投入分の返納を要求して、先に子々孫々に累が及ぶはずの国家の膨大な借金返済を優先しろ、と言いたい衝動に駆られます。
年金や医療費はなるべく自己責任とし、それぞれの責任で民間の保険機関で運用された方が納得できます。
また、国への依存は減らし、明らかに二重課税の贈与税や相続税は廃止し、寄付制度で社会福祉を見直すべきではないでしょうか。
みながそう言って反旗を翻せば、政治も変わるはずですが、そうした望みは絶望的です。
やはり僅かの施しでも、一回貰ってしまえば麻薬中毒症のように受益者側の国民も拒否することにはならないからです。それも政治家はお見通しで、制度改正の時間稼ぎをした上に、さらに都合良く政争の具に使い延長と延命を謀ろうとします。
ひとが自分たちの代では累が及ばないからと、我が子や孫の将来に責任を持とうとしないのなら、子孫は自分たちの墓を守り敬うどころか、足蹴にして顧みないような社会が待っていると知るべきでしょう。

国の制度是正にまで及ぶ社会的な格差や歪みに対して、制度的に是正を試みようとするのが政治家の役割の一つと見なされますが、その社会的な格差や歪みを良きにつけ悪きにつけ利用して、活動の場が与えられ自らの利得に結びつけることができるのが政治家や弁護士、高級公務員といった職業の人々です。こうした職業人がいくら正義感を振りかざしても、自らの生業の根本である社会の格差や歪みの完全な解決を本当に心から望んでいるはずもありません。
役所だって税務署だって検察や警察や司法だって、自分たちの職場を守るために、次から次に裁判員制度などといった無駄な仕事を増やすし増税の仕掛けを考えつくし、民事不介入と言って面倒な仕事には取り合おうとせず、刑事事件では組織をあげての証拠のでっち上げやえん罪事件であっても仕組むような傾向が見えます。
子供でも、少し考えればわかります。教育の現場にも資本の論理は枝葉に至るまで浸透しています。子供が将来の希望する職業を聞かれて、政治家や弁護士、官僚と答えるとすれば、それは自身が社会の格差や歪みに対して制度的な是正を加え尊敬される人や有名になり、その結果、報酬として安定したお金を手にすることができることを知っているからです。スポーツ選手だって稼げるプロを目指すためでしょう。
かりに、社会の格差や歪みに対して果敢に是正を求める運動を起こしても、解決には相応の長い時間がかかります。その長い時間中、政治家や弁護士などは生活に困ることのない報酬が用意されることになります。
これが経済や市場における格差や歪みであれば、話は簡単です。資本の論理によって瞬時に解消が図られます。その意味では、経済や市場での格差や歪みによって儲けをたくらむ人は意外に少額しか儲からないうちにマーケットは是正されてしまうのです。ところが、政治や法制や社会制度にまつわる歪みは簡単には解消されないために、そこでおもに稼ごうとする人は比較的長期に渡って利得を享受し続けることができます。
ですから、結果的には経済的な格差や富の偏在といった経済的な歪みの方が、政治的・社会的な由来に基づく歪みよりも健全だと言えるでしょう。

グローバル化の時代は、チャンスの多い勝負の激戦地には、やはりよそ者の発想が必要です。内輪の発想では、仲間や地縁血縁を排除できませんし、地元のしがらみから脱することは不可能です。そうしたスカートの裾を引っ張ったり踏んだりするような人の多いところでは自由な発想で事業を展開することに憚られるからです。

日本でも経済成長の時代に、都市にチャンスを求めて出ていった人達は、自分にもチャンスがある、滑り込む隙間があると思い込んで、度胸試し、腕試しのつもりで飛び出していきました。先の大戦の前に、新開拓地に夢を抱いて満州大陸に渡った人達にも同じことが言えます。
ひとには度胸試し、腕試しに乗っかる人とそれを畏れる人の二種類があります。
畏れる人は能力の有無は別にして、故郷や田舎に残る道を選びました。また、度胸試し腕試しで出ていった人達も、能力の有無は関係なく出ていきますから、成功も失敗も悲喜こもごもです。また、故郷や田舎に残る人もいなければ、人の居ない過疎のうら寂しい僻村となってしまいます。これもまた困ります。

これからの日本の進む道は、不合理と矛盾に満ちています。
会社ではアルバイトも派遣もパートも契約社員も非正規社員はみな社員に格上げされ、毎年定期昇給のほかに賃上げが定常化した上に、定年は65歳や70歳に延長されて、望めば一生涯社員の面倒を見てくれて、もし退職するならば悠々自適の年金生活が約束されていて、病気になれば国が医療費から介護まで面倒見てくれるなんて考えているひとも多いかもしれません。

しかし、ちょっと待ってください。いつまでも、そんな都合のよい話はあるはずがない。
それでは会社や国家がもつはずがない。会社は高負担に耐えかねて、体力のないところから順に廃業に追い込まれるか、多少でも体力のある会社では余裕のある内に国外へと出ていくことになるでしょう。現に製造現場は次々に海外に出ていきました。
国家だって、毎年歳入の2倍の支出を繰り返さなければならず、当然国債発行に頼る財政ではその負担に耐えかねて、膨大な財政赤字を解消できずに衰亡の路を辿ることになるのは火を見るより明らかです。
役所だって税務署だって、自分たちの職場を守り新たな仕事を作り出すために、次から次に増税の仕掛けを考え、マイナンバーとやらの国民総背番号制の導入を考えつくのです。
年金記録の把握一元化のためと言いながら、ホントは徴税のための一元管理をして取りっぱぐれないように監視体制を敷き自分たちの業容と権益を拡げることが目的なのです。
徴税の御旗の前では国民のプライバシーさえ犠牲にされようとしています。

話は簡単です。歳入に見合った支出という、当たり前のコンセプトに立ち戻ればよいだけなのです。その上で正直に、国民に善処策を講じるための犠牲をお願いすればよいだけです。そうでなければ、国家破綻ですよ、将来に禍根の残すことになりますよ、と言えばよいのです。なぜ、議員はそれを言わないのでしょうか。理由は、これまた簡単で、自分たちに都合が悪いからです。

会社や国家に過大な期待を寄せたりタカったりするのは、もう皆止めなければならないでしょう。そうしないと自分たちの怠慢で将来の子孫に多大な負債を背負わせることになるのです。賢明な人なら、自らの作った負債は自らの代で解消していく努力をお互いに始めるべきじゃないかと思います。

私たちには、実は潜在的な甘えの構造ともいうべきものがあります。
自分たちの生きる社会が行き詰まり上手くいかなくなったら、流れに抗うことなく、積極的に関与して得るものは得た上で、みんな同罪だからいっそのこと潔く崩壊に向かえばよいという心の闇です。
そうすれば、いずれこの国には救済者・マッカーサーが再びパイプをくわえて降り立ち、有無をいわさず旧体制を転覆させて、この国をリセットしてくれる。
それまでは不都合もあるが、これも仕方のないことだと忍の一字で堪え忍ぶ。
私たちの心の奥に潜む闇とは、つまるところそういうことじゃないのでしょうか?
2013.05.02

 

2013/09/20