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中国名言と株式紀行(小林 章)

第130回 四000年を学ぶ中国名言/「養う食客の数ではなく、錐の質」

『錐の嚢中に処(お)るがごとし(若錐之処嚢中)』
                                 出典【『史記』平原君列伝】
[要旨]傑出した人物は、必ずその力を発揮する機会に恵まれることのたとえ。
『史記』平原君虞卿列伝中のことばです。まさにエッジ(尖った、出る杭)の効いた人材活用術の勧めのような話です。
戦国時代の趙の平原君は貴族(武霊王の公子)で人望と財力に厚く、諸国の食客(しょっかく、またはしょっきゃくと読む)と呼ばれるさまざまな才能溢れる人材集団数千人を擁し、名を知られた人物です。
こうした多くの食客を抱えたことで有名な人物としては、今回の平原君を初め戦国四君(斉の孟嘗君、 趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君)がつとに有名です。また、「奇貨居くべし」で知られる秦の呂不韋も同様に、多くの食客を抱えていたといわれています。
食客は、有力諸侯などの「館(『官』が原字)」に起居し、養われていましたが、日頃、あるいはいざという時には、持てる特異な才能を発揮して主人を助けました。
これが後に、「官」または「官僚」の起源となりました。
食客は、その特別な技能や才能からの報酬によって取り立てられて「論客」や「剣客」や「刺客」等の語源ともなりました。

平原君は信義に篤い人ではあるが、目先の小利に目がくらみ大局を見極めるという点で甘さのある人だといわれています。それは次のエピソードからも分かるといいます。

平原君の妻妾・張燕が足の悪い男の歩き方を見て大笑いしました。その男は平原君に自分が笑われた悔しさを晴らすために「貴君は士を尊んで、女色を軽んずる人と言われれています。あの女の首をはねて、私に下さい」と言い、処罰が与えられるよう頼み込みました。
平原君は、その場では「その通りにしよう」と言いますが、食客の前で「こんなことで張燕の首をはねることは出来ないだろう」と言ってしまいます。
その日から食客達は一人、二人と平原君の元を去っていき、半分もいなくなってしまいました。
その理由が分からない平原君は、残っていた食客に尋ねると「その場限りの方便を言って、実行しなかった」と言われます。士よりも女色を重んずると思われたのです。
それを聞くと、平原君は直ちに張燕の首をはねて男に詫びました。男は泣いて喜び、去っていった食客達は一人、二人と戻って来たといいます。

司馬遷は『史記』「平原君虞卿列伝」で、平原君について、こう評しています。
平原君は、飛鳥が翩々(へんぺん)として得がたいように、濁世に得がたい佳公子である。しかし、治国の大局を見ることに暗い。俗諺に「利は智を昏(くら)くする」とある。
平原君は、馮亭の邪説(韓の北部の領土の自国への帰属を認めること)に心がくらみ、趙に長平の戦いで秦軍の白起将軍に責められ四十五万の兵の犠牲を与え、邯鄲は危うく滅亡させてしまおうとした。

そして、秦軍が趙の都・邯鄲を包囲した時、趙は平原君を使節とし救援を楚に求め、窮余の策として合縦合作(合従)の約を結ぼうとしたのです。

平原君は、食客のうち、武力に秀でた者や文武兼ね備えたもの二十人を従えて楚に行くことに決めました。
「礼儀に従って合縦策を受け入れられれば良いが、受け入れられなければ、麗しい宮殿を血で染めても、合縦策は約束させて帰らねばならぬ」
食客や家来の中から、十九人がすんなり選ばれたが、予定の二十人の数に満たない。
そうした時、毛遂という者が進み出て自薦した。
「何とぞこの毛遂をお供に加えていただきとう存じます」。
平原君は「先生が、わしの家に来られてから何年になるのか」と問うた。
毛遂は「ことしで三年に相なります」と答えました。
平原君は「はたして賢人というものは、モノに喩えるならば、袋の中に錐(きり)を入れておくようなものだ。その穂先は、袋を突き破り、すぐ見えるものであろう。ところが、先生は、私の家に来られてもう三年にもなるのに、周りの者が賞めたのを聞いたことは一度もない。私も噂にも聞かないのは、先生に何の能が無いからであろう。先生ではダメだ。残ってもらおう」と言われた。
それを聞いて、毛遂は「私は、今日こそは、袋の中に入りたいとお願いするのでございます。もっと早く袋の中におりましたらば、それこそ柄まで抜け出しておりましたろうに。穂先が現れるくらいのことでは収まりませんでしたろうに」と述べた。
平原君は、そこまで言うならと、根負けして不承ぶしょうに、とうとう毛遂を連れて行くことにした。
ほかの十九人は目を見合わせ、あざ笑ったが口には出さなかった。
毛遂は楚に着くまでの間に、他の十九人と議論をたたかわせ、皆が彼に感服した。

平原君は楚の国に到着し、合縦策に付いて、利害を述べたが、日の出る頃に議論を始めたが、真昼になっても決しなかった。
そこに、業を煮やした毛遂は剣の柄を抑えつつ、階段をずかずかと登り、平原君に言った。
「合縦が利益かどうかは、二言で決まることであります。それを、日が昇る頃より正午まで議論が果てぬのは、何事ですか」と。
楚王は平原君に向かい「その男は、一体何者か?」と聞いた。
平原君は「それがしの家来です」と答えた。
それを聞いて、楚王は叱りつけた。
「下がらぬか。わしはおぬしの主人と相談中じゃ、きさまが何を言う」と。
今度は、毛遂が剣を押さえて、楚王の前に出た。
「王様が、私を叱られますのは、楚国に強者(つわもの)が多い故のことでございましょうが、ただいまのこの十歩の中では、楚国の強者の多くとも頼みになりましょうや、王様の御命は、私の手にかかっておりますぞ。我が殿の前でのお叱りは、何ごとでしょう。
いや、それよりも私の知りうる限り、いにしえの湯王は七十里の地をもって天下の君となり、文王は百里の壌をもって諸侯を臣とせられました。兵卒の数ではございますまい。
その形勢を制し、威力を振るわれた故でございました。
さて今、楚の国は周囲五千里、矛を持つもの百万、食糧は十年を支えると聞きますと、覇王となるに素地は充分でしょう。この強大の国が、天下に届かぬはずはありますまい。
秦の白起将軍などは、たかの知れた小童(こわっぱ)です。
それが数万の兵を率いて、楚の国とも戦いに参ると申しております。ただ一戦で燕と衛の都を根こそぎにし、二戦目には夷陵を焼き払い、三戦目ではオタマ山で辱めを受けました。
これぞ百代までの怨みにて、わが趙の国の者まで恥辱と思っておりますのに、よく王様は恥ずかしいとも思われませんなあ。
この度の合縦策は楚国の御為であり、我が趙のためでは決してございません。我が殿を前にして、私を叱られたは、まったく何とした事でしょうか」と言上した。
楚王は、毛遂の言葉を聞き「左様だ。如何にも、先生の言われる通りじゃ。楚国を挙げて合縦策に加わろう」と言われた。
毛遂は、念のためもう一度「合縦と定まりましたか」と楚王に聞いた。
楚王は「もはや、定まったぞ」と仰って、合縦策が決した。
毛遂は楚王の側近の者に「雉と犬と馬の血を持ってくるのだ」と叫んだ。
毛遂は銅の鉢を手にささげ、ひざまずいて楚王に差し出した。
「まず、王様がこの血をすすって合縦の誓いをお定め下さい。その次には、我が殿。その次は、それがしの番でございます」と。
こうして殿上に於いて合縦の誓約がなされると、毛遂は左手に血の鉢を持ち、右手を挙げ十九人の随員に言った。「さあ、一緒にこの血を飲むのだ。皆、役に立たん者ばかりだな。人の尻について仕事をするとは、このことだ」と。

平原君は合縦(合従)の盟約を結んで帰ったが、趙へ帰り着くと言った。「私は、もう二度と男の見立てをするつもりはない。私が見い出した士は多くて千人、少なくとも百人はあろう。天下の士は一人たりとも見逃さぬと自分で思っていたが、今度という今度は、毛遂先生の場合は、見誤っていた。
毛遂先生は、たった一度の楚国の旅で、我が趙国を九つの鼎より重いものにして下された。
毛遂先生の舌先三寸は、百万の軍にも勝っておった。私は、もう二度と士を見立てるなどとは言わぬことにする」と。かくて、毛遂を客分の上席に就かせた。

天下の食客数千人を集めたと言われた平原君を持ってしても、錐(人の才能)を言い当てることは難しかったのである。
それにしても、司馬遷の指摘するように、平原君は育ちの良さが人柄の現れたような人ではあるが、何か詰めの甘い、目先の小利に流されるようなところのある人の様です。
                           65「養う食客の数ではなく、錐の質」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。  

2013/07/25