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中国名言と株式紀行(小林 章)

第126回 四000年を学ぶ中国名言/「怒れる拳、笑顔に当たらず」

『窮鳥懐に入る(窮鳥入懐)』
                                  出典【『顔氏家訓』省事】
[要旨]追い詰められて逃げ場を失ったものが助けを求めて来れば、大切に扱うべきとのたとえ。
「窮鳥入懐、仁人所憫、況死士帰我、常棄之乎」(逃げ場をなくして追い詰められた鳥が助けを求めて懐に入って来たならば、慈悲深い仁者はこれを憐れむ。ましてや死を覚悟した兵士の存亡帰趨が我にかかっているとすれば、どうしてこれを見捨てることができようか。それはできない。)

広義に解釈されて、追いつめられて困窮した者が救いを求めてきたら、どんな理由があろうと助けてやるのが人情だということに解釈されています。日本では「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず(または、撃たず)」ともいわれます。原典では「猟師」云々は見当たりませんが、日本に入ってきて用語として追加・定着したと推測されています。
逃げ場を失った鳥が懐に飛び込んでくれば、鳥を撃つのが仕事である「猟師」であっても、哀れに思って殺したりはしないだろうということをいいます。
「尾を振る犬は叩かれず」「尾を振る犬は打ち手なし」や「怒れる拳笑顔に当たらず」なども類語です。

『顔氏家訓』とは、中国の北斉の顔之推が著した家訓、つまり子々孫々に伝えるべき訓戒の書で、全7巻です。中国では、ただ単に『家訓』といえばこれを指します。
著者の顔之推は質実な気風のあった北朝の士人として伝統的な家族道徳を重視し、学問・教養・思想・儀礼・信仰や生活態度・言語文学・諸事諸芸から、処世術や交際術にまで及ぶ、自らの具体的な体験談や事例をあげ、こと細かく順序立てて教えています。
中国南朝・北朝の貴族の生活や社会の様子を知ることができる重要な民俗的資料としても貴重だといわれています。
顔氏一族は元来山東省出身で、先祖は孔子の弟子・顔回の家系を汲むとされ、代々学者で能書家を多く排出しています。唐代の著名な学者・顔師古や政治家で能書家の顔真卿は、顔之推の直系の子孫です。

「窮鳥、懐に入る」の『漢書』または『史記』の「循吏列伝」中の小故事は以下のようになります。なお『史記』に登場する人物は有名無名をとわず、約4千人と言われますが、この登場人物もその一人です。

朱建という人は楚の人で、性格は剛毅であり弁論に長けた人でした。
またその性格は峻厳清廉で義を重んじ、世間に受け入れられようとして人に迎合することもありませんでした。
初めは、淮南王となった黥布に仕え宰相となりましたが、劉邦に反乱を起こそうと黥布は朱建に相談しましたが、反対されます。しかし、黥布は反乱を実行し失敗してしまいます。
朱建も捕らえられますが、黥布の謀反に反対したことが分かると許されます。
前漢の劉邦により平原君の称号の与えられた朱建は、母を始め一家そろって長安に移て来ましたが、朱建の名は都でも評判となります。
当時、権力を握っていた呂后に付き添い気に入られて権力を欲しいままにしていた審食其(しんいき)は、朱建の評判を聞き交際を求めましたが朱建は会おうともしません。
しばらくして、朱建の母が亡くなります。朱建には財産が無く葬具も買えないので、葬式を行うことができずに喪を発表することもできません。仕方なく、朱建は他人から葬具を借りて葬式を行おうとしました。
朱建と仲のよかった陸賈は、見かねて審食其を訪問して次のように言います。
陸賈が「おめでとうございます。平原君(朱建)の母親が亡くなりました」
審食其は「はて、平原君の母が亡くなったことが、どうしてめでたいのだ?」
陸賈が「以前あなたは平原君に交際を求め、断られました。彼は母親がいたため、道を守ってあなたを拒んだのです。今、彼の母親はこの世を去りました。もし、あなたが手厚く弔慰なされれば彼はあなたに一身を捧げるでしょう。彼はそんな男です」
審食其は「なるほど。わかった」
審食其は黄金百金を持って弔問に訪れ、朱建にその金をすべて渡しました。
それを見た他の列侯・貴人ら弔問客も負けじと香典を贈ったために、朱建の母の葬式で、総計五百金が集まりました。
朱建はこのことに密かに恩義に感じていましたが、あまり表面には出さないようにしていました。
ある時、審食其は快く思わぬ側近から讒言(ざんげん)され、それによって激怒した恵帝は審食其を獄に下し殺そうとしました。また、他の大臣らも普段から審食其の高慢な振る舞いを憎み嫌っていたので、誰もが「いいザマだ」と思っていたのです。
審食其を可愛がっていた呂后でさえも恵帝をとりなせません。
審食其は切羽詰って、苦し紛れに使者を遣って朱建に助けを求めました。
しかし、朱建は「あなたの裁判が切迫しているのでお目にかかることはできないでしょう」
とその場は突っぱねました。
審食其は裏切られたと思いましたが、どうすることもできません。
その頃、朱建は恵帝が寵幸する少年・閎(こう)と会っていました。
朱建は少年に次のように説きます。
「君が陛下に愛されていることを知らぬ者は誰一人いません。辟陽侯(審食其)は呂后さまに寵愛されているにもかかわらず、讒言され殺されようとしています。世間では道行く人までが、君が辟陽侯を貶める為に謗ったと噂しています。もし辟陽侯が殺されたなら、次に殺されるのは君です。呂后は君を放っておかないでしょう。君はすぐに陛下の元へ行き、辟陽侯の為にとりなすべきです。陛下が君の懇願をお聞き入れになり辟陽侯が助かれば、呂后は大いに喜ばれるでしょう。そうすれば二人の主から好かれることになり、君の富と位は二倍にもなるでしょう」
少年・閎は非常に恐れ、朱建の言った通りに恵帝に進言しました。
恵帝は少年・閎の意見を聞き入れ、審食其を釈放しました。
また呂后も喜び、恵帝死後も少年・閎は誅殺されることはありませんでした。
審食其は一旦は裏切られたと思い込み怨んでいましたが、朱建の計略が成功し、自分が釈放されてはじめて朱建の行いに驚き、敬服したといいます。

この故事における「窮鳥、懐に入る」の「窮鳥」とは辟陽侯(審食其)このことであり、その「懐」の主は平原君こと朱建です。しかし、この小故事には続きがあり、朱建が審食其の危機を救ったことが、対立者の疑惑と不興を買い、後に自害せざる終えない原因となってしまいました。もちろん朱建には覚悟がありました。ここで自ら死ねば禍根は絶たれ、家族の身に災いは及ぶまいと考えて潔く自害したのでした。

官製史書である班固の『漢書』と司馬遷の『史記』の朱建に対する評価は180度異なります。ここにも面白さがあります。
班固は「朱建は、初め廉直で名声があったが、後に審食其を庇って助け、その節義を全うしなかった。そして、そのために身を滅ぼしてしまった」と辛い人物評価を記しています。
一方、司馬遷の方は、頑固でまじめな人々を「中流の砥柱(黄河の三門峡に大岩が厳として立つ有様)」として、その極めて個性的な人物として「列伝」中に公儀休、石奢、李離らと共に朱建も加えています。司馬遷は朱建の子孫との友誼もあり、好意的な捉え方をしています。『史記』の記述は、遊侠者や刺客、盗賊、貨殖者(お金持ちになった人)、素封家、男色者、「泣かず飛ばず」と称された滑稽者、女傑などの人々が生き生きと短い言葉で鋭く描写されており、官製史書とは明らかに趣を異にしています。ここに『史記』の真価が発揮されています。単なる史書でなく読み物としても楽しめます。

朱建にとっての助命を求めてきた辟陽侯(審食其)とは、単なる「窮鳥」ではなく恩義ある人でもありました。朱建としては、審食其との関係は決して褒められたものでも、自ら望むべき関係でもなかったでしょう。朱建は「廉直で名声」もある人でした。どんなにひいき目に見ても、班固の指摘のように、説を曲げた「転向者」との見方にはあたらないと思われます。
朱建の取った審食其の救命の計略は、極めて慎重で冷静なものでした。しかも、自らに累が及ぶと知った時には、自身の進退はすでに定まっていました。この潔さ、いざという時の覚悟のあり様は尋常とも思えません。ただならぬ賢者の風が漂っています。彼の行動を許容し得なかった時代の風潮にもどかしさも感じます。

類語に「怒れる拳笑顔に当たらず」という意味深なことわざがあります。
笑顔の効用は様々に言われます。笑う門には福来たるとか、笑顔でいるといいことがあるとか、いわれます。また「薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果がある」(アンネ・フランク)や「笑うものは命永し」(ノルウェーの格言)や「笑って暮らすも一生、泣いて暮らすも一生」(ドイツの格言)や「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ」(ウィリアム・ジェームズ)という笑いに対するさまざまな言葉があります。

笑顔には、それを見る人だけでなく、笑顔を作る人にとってもよい効果があるようです。ある簡単な実験があります。箸を縦にして噛んでくわえた人と、横にして噛んでくわえた人では脳の働きに違いが認められました。箸を横にして噛んでくわえた人は笑顔に似た表情になります。そうすると、脳ではドーパミン系(快楽系)の神経活動が認められました。
すなわち、この簡単な実験から分かることがあります。それは、笑顔を作ると脳は楽しくなるという事実です。人は楽しいから笑顔を作るのではなく、笑顔だから楽しくなるという逆説的な関係が正解だったのです。どうしてでしょうか。

ヒトは進化の過程で、恐る恐る木の上から地上に降りて生活せざる終えませんでした。その時に猿のお面のようなノッペリした幼形の顔が役立ちました。箸を横にして歯で噛むような表情を作ることで、相手に自分が敵ではないことを知らせることができたのです。ヒトが顔で表情を作ることを覚えた瞬間です。笑顔は、ですからヒトの編み出した比較的初期の段階で獲得された有力なコミュニケーション・ツールでもあったのです。

怒れる拳も、面前の破顔一笑、無邪気にこぼれる笑顔や、ヒトに恭順のために盛んに尾を振る犬や、行き場を失って羽をうちからして懐に飛び込んできた窮鳥には当たらぬものと心得たいものです。
                            63「怒れる拳、笑顔に当たらず」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/07/07