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中国名言と株式紀行(小林 章)

第122回 四000年を学ぶ中国名言/「古稀を詠った詩人」

『君見ずや管鮑貧時の交わり、この道今人棄てて土のごとし(君不見管鮑貧時交、此道今人棄如土)』
                              出典【『唐詩選』杜甫「貧交行」】
[要旨]友情の貴さを一顧だにしない世情への嘆きと憤り。
「管鮑の交わり」については以前に取り上げました。今回はその故事を取り上げて漢詩に読み込んだ「詩聖」と讃えられる杜甫についてです。
正直、杜甫の詩は感傷的過ぎるきらいがあります。いえ、違います。詩を読む人が、勝手に感傷に浸ってしまうのかも知れません。

杜甫の雑言古詩「貧交行」をもう一度初めから鑑賞してみます。

  翻手作雲覆手雨    手を翻せば雲を作り手を覆せば雨 
  紛紛輕薄何須數    紛紛たる輕薄 何ぞ數ふるを須(もち)いん
  君不見管鮑貧時交   君見ずや 管鮑貧時の交
  此道今人棄如土    此の道 今人棄てて土の如し

手を上に向ければ雲となり、下に向ければ雨となる、紛紛たる軽薄が世の中にあふれている。君はかの管仲と鮑叔牙の貧時の交わりを見たことがなかっただろうか、そのような友情も今ではすたれて誰も気に留めるものがいなくなってしまった。
管鮑の交わりについては以前にも触れましたが、司馬遷『史記』の「管晏列伝」に詳しく記されています。

盛唐期の西暦752年(天宝11年)、杜甫41歳の時の作だと言われています。当時の杜甫は科挙試験にことごとく落ちて出世の見込みがなくなるうちにも、何とかして仕官先を探そうと、さまざまな人のつてを求めて、自分を売り込んでいました。しかし、その努力もむなしく、つらい浪人生活が続いていたのでした。
この詩作の翌年には次男(杜宗武)が生まれ、ますます生活のために仕官のつてを求めて奔走して、高官たちに頻繁に詩を献じています。そして、就活が実って755年(天宝14年)玄宗の代にようやく河西の尉に任じられますが自ら断り、改めて有力な友人の推薦で首都長安で右衛率府の胄曹参軍(護衛軍の武具を管理する役職)という下級役人になれました。
しかし、1年も経たないうちに安史の乱で、長安は安碌山に占拠されてしまいます。杜甫も賊軍に捕らえらてしまいました。
その時の長安の様子を「春望」という詩にしています。「国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」と詠われる有名な五言律詩です。
後に逃走し、次皇帝・粛宗のもとに馳せて左拾遺という諫官の位を授かりますが、ちょっとした事件で皇帝の怒りを買い華州(陝西省華県)に左遷されてしまいます。
そして、杜甫は759年(乾元2年)の大飢饉に見舞われ、官を捨てて、秦州(甘粛省天水市)から同谷(甘粛省成県)に逃れ、ドングリや山芋などを食いつないで飢えをしのぎました。そして蜀道の険を越えて成都に辿り着き、ようやく落ち着く場所(杜甫草堂)を得ます。成都の赴任してきた友人・巌武の推挙により節度参謀・工部員外郎の官位に一時就きますが、それもすぐに辞めています。5年の成都での暮らしの後、長江を下り都・長安に向かいますが、潭州と岳州(ともに湖南省)のあいだの相江の舟の中で客死します。享年は59歳でした。

杜甫は河南鞏県の生まれで襄陽(湖北省)の人と言われますが、祖父が著名な初唐期の宮廷詩人で、そうした影響から6歳から詩作を始め、12歳頃には文人としての素養を認められていました。地方の官僚の家に生まれたことから官途への思いがありました。
杜甫の詩作の傾向は、親交を結んだ「詩仙」と呼ばれた李白とは詩風を異にして、自らの境遇の悲哀や世情、世相、政治への不信や不満・批判も滲ませた作品が多くなっています。
安史の乱で、自らも巻き込まれ辛酸を舐め、かつ国政や秩序が大きく乱れたことも彼の詩作に影を落としています。
一時の平安を得た成都時代は比較的大らかな自然に向き合ったような作風もありました。

40歳を過ぎて仕官を志す、そんな中で、人情の薄さ、友情のもろさを歎いたのが、杜甫のこの作品です。かつて親しくしていた友人たちも、手のひらをかえしたように薄情になったように思えます。そんな人々をみるにつけて、自分はかの「管鮑の交わり」を思い起こします。今の世の人には、そんな友情は価値のないものになってしまったのだろうかと、杜甫は嘆いているのです。
杜甫には、政治への関与を積極的に志す希望がありました。ですから仕官のための就活運動にも積極的に動きました。国政の内部に依って、内からの政治の乱れを正すという希望を持っていたようです。しかし、彼の詩作にもそうした社会性の強い、現実との葛藤や感情の起伏が色濃く出てしまい、官途には災いします。

詩の冒頭の「翻雲覆雨」は、すでに四字熟語にもなっており、手のひらを仰向けると雲がわき、手のひらを伏せると雨になる。すなわち、人情の変わりやすいことのたとえにも使われます。または、世の人情のほかに、男女間の情愛についてもいう場合があります。
こうした人の心の移ろいやすさを表す類語に「毀誉褒貶(きよほうへん)」=人をほめたり悪口を言ったりすること、などがあります。
人情にはコインの表裏、表裏一体の様相が見られることがあります。表現主義的にはアンビギュアス(両義的)ということになります。

古代より西洋文明の主流は物事や現象に線引きをして分けて、それを分類し、整理することで学術の礎が整えられてきました。しかし、中国文明に置いては事物や現象を解釈することに重きが置かれてきたのでした。事物は枝葉や部品に解剖や分解され、ピンセットでつまみ上げて分類されるよりは、事物を現象として捉えて、その現出の仕方を様々に解釈したり、別の面から解釈し直したりすることが中国での学問でした。事物や事象の見方、またその見方に対する深い洞察や解釈が中国文化の源流にあります。
そして、しばしば事物は現象としては陽と陰、正と反、表と裏、明と暗、光と影といった相貌を兼ね備えています。こうした事物の捉え方は、西洋では時間を切り抜いたり切り取ったりした上での精緻な分析と因果関係とは次元の異なる現象でしかなく、証明不可能で非科学的な隠喩やレトリックとしてしか受け入れられないものでした。しかし、近代の哲学思想の分野では常にこうした見方がエポックメーキングな発想を産む要素となってきました。ヘーゲル、マルクス、フッサール、メルロ=ポンティーなどの名前を挙げれば十分でしょう。

何も大袈裟なことを言うつもりはないのですが、漢詩には事物や風景、事件、生活などの現象を各方面から無心に広角や俯瞰で観て、典故を引いて自分流に解釈を施し、決められた字数内で一定の形式に纏められた芸術(=箱庭的世界観)です。また、漢詩を読む人に読む人なりの解釈を許す余地を与えながらも、同感や同意を得ようとする表現形式でもあります。

中国で現在でも文章や会話に対句表現が好まれたり、家門の両脇に対聯といって対句の大書された赤い紙が貼り付けられるのも、対称系のシンメトリーが多用されるのも、こうした漢詩の見方に共通する発想が基にあるようです。
図象的には対象の真ん中にに中心線を引いて、その左右対称な精緻な鏡像の類似形の様式美を指しますが、漢詩の世界では、対置の様式自体に重きが置かれ、左右の様相は対語や対句となっています。
この左右に置かれるのが陽と陰、正と反、表と裏、明と暗、白と黒、光と影、月亮と太陽、天と地、大と小、長と軽、快と慢、急と緩、強と弱、吉と兆、美と醜、善と悪、幼と老、女と男などなどです。事物や事象の見方は、中心に対して左右の対称形でありながらコインのように両面があり、両義に解釈できる面を強調することで詩的世界観を浮き彫りにしようとしています。

よく李白と杜甫を比べて「ネアカ人間の李白とネクラの杜甫」と言われます。詩作の作風の違いから言われることですが、山水やことに月を愛して道士を訪ね歩くあっけらかんとした李白と生活の安定のために官途を諦めなかったが現世に怨みがましい文句も多かった杜甫。突き抜けた感性と表現を見せた李白と感傷と嘆きを詩に定着させた杜甫。しかし、二人の生き方自体にもその違いが見られたのではないでしょうか。
杜甫の詩『曲江詩』中の「人生七十古来稀(七十年生きる人は古くから稀である)」の句から70歳を「古稀」あるいは「古希」いう言葉が生まれています。残念なことに、現世に怨みを残しつつも、杜甫は古希までは至ることは出来ませんでした。
                                  61「古稀を詠った詩人」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/06/29