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中国名言と株式紀行(小林 章)

第116回 四000年を学ぶ中国名言/「修身斉家治国平天下とは」

『君、君たらずと雖も、臣は以て臣たらざるべからず(君雖不君、臣不可以不臣)』
                                 出典【『古文孝経訓伝序』】
[要旨]暗君愚君であっても、その臣下は忠臣であるべきだ、との主張。
出典の『古文孝経訓伝序』は前漢の学者である孔安国の作だと言われています。孔安国は曲阜(きょくふ:山東省)の人で、字は子国。孔子11世の孫ともいわれる人です。孔子12世の孫とする記述もあります。生没年は未詳です。
前漢の武帝の時に諫議大夫に任ぜられ、博士となり、臨淮の太守となったという記録があるようですから、孔子の家系の正統者は漢の時代には殊の外優遇されたのでしょう。

前漢の6代皇帝・景帝時代の末年に、魯の共王が宮殿拡張のために孔子の旧宅をこわし、家の壁の中から『尚書』『礼記』『論語』『孝経』の古いテキスト数百編が発見されます。
これについても、武帝の初年、孔子の旧宅から蝌蚪(かと)文字(=古体篆字)で書かれた『尚書』『論語』『孝経』『礼記』が出たという記述があったりで、考証的にも真偽はよくわかりません。

古くは秦の博士だった伏生(伏勝)が、焚書坑儒に際して壁の中に隠しておいた『古文尚書』28篇を後世に伝え、今文(きんぶん:隷書体)に書き写されてきました。
しかし、この孔家の壁中の発見が系代の孫である孔安国を有名にします。かの立場で彼は優越的に発見古書の検分に預かったのでしょう。元々彼の手元には孔家代々伝わる『尚書』があったとされています。後に、孔安国は、蝌蚪文字(秦以前の書体:古体篆字)で記された『古文尚書』(『書経』の異本)が今文(当時通用の文字:隷書体)の『尚書』より堯典・禹貢・洪範・微子など16篇多いことを知ります。
そこで在来の今文(きんぶん)と校合して翻読し、『古文尚書』の註釈書を著し、今文に対し「古文」の学が起こったとされています。
当時、古文である蝌蚪文字を読めるものは殆どいなかったのだといいます。秦の「焚書坑儒」や度重なる戦乱などの影響があり、古文の書籍が殆ど失われていたからです。孔子旧家で発見された壁中古文本は孔安国伝本と見なされています。
ところが『古文尚書』は後世の偽作であるという説も有望です。考証の顛末はミステリアスで真偽入り乱れて、定説が未だに無いようです。

いずれにしても、孔子11世の孫だと言われるだけで孔安国という人物が、漢の時代に、孔子の旧宅壁中から得た蝌蚪文字(古体篆字)で記された『古文尚書』(書経の異本)と『礼記』『論語』『孝経』を、当時通用の『今文尚書』と比較研究して翻読し、註釈書も作ったという話は俄には信じ難い面もあるわけです。
仮にそうした事実があったとしても、それは孔安国一人の力量のみで出来た業績でないことは確かです。後代に渡って彼の業績と言われる部分を埋め合わせ続けた有能の士もあったはずなのです。

私の見解は、前々々回取り上げた『驥尾に附して行いますます顕る(附驥尾而行益顕)』で顔回(顔淵)がよく学問に励んではいたが、孔子というすぐれた師に従って学問に打ち込んだことによって、その行いがますます世に知られるようになった、という話を取り上げましたが、孔安国も将に孔子という偉大な先租の「驥尾に附して」有名になったとしか正直思えないのです。

出典にある孔安国の『古文孝経訓伝序』にある「君、君たらずと雖も、臣は以て臣たらざるべからず」という言葉は、主君がたとえ徳が無く主君としての道理をわきまえなくても、臣下はあくまで臣下としての道を守って、忠義を尽くさなければならない、という儒教道徳の教えを表していると解釈されています。これはこの時代よりの封建君主制の存立を正当化する根本思想でもあり、儒教が体制維持の思想根拠を与えたと見なされる所以です。
恐らく、孔安国は孔子の正統な子孫の系統というだけで、漢の武帝に召し抱えられ丁重に扱われていい気になって、武帝を始め前漢の仕える皇帝のご機嫌を取るために君臣の心得を、臣下の忠節を尽くすという視点から述べて、後付的に儒教道徳の立場からも正当化しなければならない事情があったのです。私は別に孔安国に怨みなど何もないのですが。

孔子の実際に生きた時代に説かれた理想の君臣関係は、君主に徳行を積み仁者たるものでなければなりませんでしたし、臣下は君主に義を尽くしても徳が認められなければ去ることも辞さないといった関係を認めていました。そもそも君主は、生まれながらに君主であるのではない、との立場でした。
『論語』顔淵篇十二に「君君臣臣父父子子」という暗号記号のような八文字が見えます。春秋時代の斉の景公の政治の要諦について質された際の孔子の回答です。
「君を君とし、臣を臣とし、父を父とし、子を子とす(臣は君を君として仕え、君は臣を臣として扱い、子は父を父として仕え、父は子を子として扱うのが、政治の本質です)」
または「政治では、君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしく振舞うことが重要です」といった意味となります。
孔子は君主に対する臣下や親に対する子供の立場を一方的な従属的な服従関係のようには全く述べてはいません。後世の解釈は、世襲を前提とする封建君主制を正当化する曲解に基づくものです。そうした思想的な根拠を孔安国の言葉は孔子の血脈を継ぐ直系として保障するものとなっています。
ですから、この言葉には後世の人の手によるものではないかとの懐疑の解釈が挟み込まれる余地が多分にあるわけです。

また、孔安国は、孔家に伝わる孔子の基本文献に語られなかったエピソードや埋もれていた記述部分の収録を目指したとされています。
史実に迫るには、基礎資料の散逸部分や記載されなかった余白や試作部分にまで当たって参考とされますが、そこから派生した思想とは後世にも一人歩き出来るエッセンス部分のみが重要です。外伝や異聞、拾遺、家訓の類は後世の人や権力者の要請に応じて補強されるために必要とされたものです。

人の重んずべき五つの人間関係を仮に儒教では「五倫」といいますが、君道、臣道、父道、子道、夫婦の道がそれにあたります。「仁義礼智信」の「五常」とともに重要な徳目と考えます。儒教は「君臣に義あり、父子に親あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり」と人倫道徳を教えています。、「五教」あるいは「五典」と称することもあります。
孟子は、秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に対する親愛・敬愛の心を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけて「五倫」の徳の実践が重要だと説いています。
また『礼記』大学篇には「修身斉家治国平天下」とあり、儒教では「斉家」の要に父や長子に対する家族関係があり「治国」の要には主君又は主従の関係が位置づけられています。
これらも封建遺訓の典型としてもよいでしょうが、これらが個人の心得程度では済まされず、人倫の道とまで定められて厳しく履行・法規化された封建的社会は、やはり個人の確立した現代にあっては息苦しい思想と受け止められざる終えないでしょう。

私の中国人観察による解釈では、中国では儒教以前の古来より『礼記』の「修身斉家治国平天下」の発想は中国人のアイデンティティーを基礎付けるものの考え方だと理解すべきだと考えます。
正確には続きがあり「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、まずその心を正す。その心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。知を致すは物に格るにあり」と『礼記』大学にありますから、順番は「格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」の順となります。

「格物致知」とは、解釈が難しい言葉ですが、事物を無心に凝視することで内省し物事の道理や本質を見極め、実践によって知を獲得していくこと。事物に触れ理を窮めていくことなどの意味と言ってよいでしょう。
「誠意正心」とは、 思いを誠実にし嘘をつかないまごころと心を正すことです。また「修身」とは、正しい行いに努め身を整え鍛錬することです。
古来より中国人の心性としては、心や自分を出発点として、心や自分を剥き出しにされた状態を極度に恐れました。よく中国人は「心を真ん中に置いて」という言葉を使います。日本人は「公平公正に見る」と勘違いしますが、心が剥き出しで直接危険に晒されたり、暴かれることを恐れているから卵の黄身のように心を真ん中に置いて白身や固い殻に守られ安心を得る必要があるのです。中国人は卵料理を好みますが、卵の形は安定安心の象徴で体内に取り込んで心の栄養にもなるとの無意識の安心=味覚の記憶があるのだと思われます。
従って「修身」の前に私や自分、または心を守る殻(=「誠意正心」)や白身(=「格物致知」)が必要となるのでしょう。

中国人はよく「一人では龍だが、二人だと猫、その他大勢だと烏合の衆だ」とか「三人集まると豚だ」いや「十人だと虫だ」などのように言われることがあります。
自分は卵のように厚い白身や固い殻に覆われていますから、自意識の強い「龍」として振る舞えるのです。しかし、龍は群れません。自意識に守られ自信家同士が一つのことに取り組み互いに助け合い補い合って一事を成すには、堅い守りが邪魔をして互いに角が立ちすぎるのです。
「修身」は更に自己防衛手段を身につけることで「斉家」は自分を守ってくれる更なる壁となります。
しかし、その後が問題です。「治国平天下」は、自分から遠い疎遠な関係の領域となっていきます。中国人はよく「公共心がない」と言いますが、自分や私から遠くなり疎遠となれば関係は薄れていきます。関心も希薄となるから「公共心」が薄いように思われるのです。中国人は自分の住む家は綺麗にして住むことを好みますが、単に掃除好きなのではなく、自分の身を置く場所は整理整頓されていることが安心感を得られるからです。日本人の若者に多いゴミ部屋に住む人は居ないはずです。
彼や彼女等が家から出て社会に旅立つ時、大切で傷つきやすい自分を守り防衛網を築くためには人との「関係」や自分を尊重してくれる最低限の「面子」が重要になりますし、親族や友人を含め「自己人(ズージィレン)」といって自分の側の人の絆をとても大切にするのです。この環のなかに入っても良い人と認められれば、友達以上に親身になって面倒を見てくれたり、家庭の食事に誘われたり、大きな犠牲を払ってでも助けてくれたりすることもあります。
こうした中国人の心性の原初形態が、古来よりあった「礼」あるいは「礼経」に関係する事柄を周から漢にかけて儒者によって注記とともに纏められ、前漢の戴徳と戴聖によって選せられた『礼記』のなかに見て取れるのです。
                              58「修身斉家治国平天下とは」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/06/17