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中国名言と株式紀行(小林 章)

第112回 四000年を学ぶ中国名言/「有能な臣下の条件」

『君が臣を択ぶのみにあらず、臣もまた君を択ぶ(非君択臣、臣亦択君)』
                                   出典【『後漢書』馬援伝】
[要旨]君主と臣下との関係に於いて、君主が一方的に臣下を選ぶだけではなく、臣下もまた君主を選ぶ権利がある。従って、臣下に慕われるように、君主も道を修めるように心掛けなければならないことをいっています。

馬援は、幼時より学問よりも北方での牧畜業を望んでいましたが、前漢が滅んで朝廷の外戚である王莽の治世になると生誕地の郡の督郵(監察役)となり、囚人の護送業務をしていましたが、その囚人達を哀れに思って逃がしてしまい、自らも北に逃亡してそこで念願の牧畜をはじめます。馬援の先祖が以前その地で役人をしていたこともあり、彼は推されてその地の頭となります。牧畜の傍ら農業も始め、馬援を慕う人間が次々と訪れ、そこの実力者となっていました。そのころ彼は「男子たるもの苦しいときには意志を強く持ち、老いてはいよいよ壮(さかん)でなくてはならない」「富を得ても施さなければただの守銭奴にすぎない」と語り、牧畜や農業で儲けた金品を親族友人に与え自分は粗末な衣服を着て仕事に熱中していたといいます。

短命であった王莽政権の末期に新城大尹(漢中郡太守)に任命され、後に隴西(甘粛省)に割拠していた隗囂(かいごう)という人の配下となります。国号を新と称した王莽の治世は周辺民族の反乱や農政などに失政が多く農民動乱や地方勢の割拠など内乱状態を招きすでに国の体を成していませんでした。そこで隗囂は、漢を継ぐと喧伝し洛陽に勢力を広げる劉秀(光武帝)と蜀に割拠して皇帝を名乗っていた公孫述の二者に目を付けて窺い、内情を調べさせるために、公孫述の同県人で旧知である馬援を蜀に使わせます。馬援は皇帝のように振る舞う公孫述に会って幻滅します。
そして、次に馬援は光武帝・劉秀への使者となります。

馬援が洛陽に赴き、後漢王朝を創始する光武帝・劉秀に謁見したときの言葉が上記です。
光武帝は礼儀にこだわらず「君は二帝の間に往来する。今、君を見て、自分が及ばざる者では無いかと恥じいる(貴公は二人の皇帝の間を気の向くままに往来しているのだな。貴公を見て、私の器の小さきことを恥じ入るよ)」と腹の中を見透かしたように笑って馬援を迎えます。それに応じて「いえいえ、そうではありません」と続けて頭を垂れて申し訳なさそうに言ったのが上記の言葉です。
当時は、王莽のように外戚者が王系に取って代わる儒教の易姓革命の考えが根幹にあり、天子は常に天子ではなく、天命に背き徳を失えば匹夫(身分の低い者)となる。臣下も君主に仕えているのではなく社稷(地神と穀神を祭る社)に仕えるものであるため、君臣は決定説ではなく一種の契約関係のようなもので、徳を失った君主を討つのは当然であるという考えもあったのです。『孔子家語』にも「君は臣を択びてこれを任じ、臣もまた君を択びてこれに事(つか)う」とあります。

その後、馬援は君主の器が大きいと判断した光武帝に仕え、伏波将軍(前漢の武帝以来、大功のあった将軍にのみ授けられる官位であった)となって各地の反乱鎮圧に目覚ましい働きを成し、63歳で死ぬまで戦場で功績を上げ続けて戦地で没します。

時代は下って三国時代の『呉書』または『三国志正史』にも同様の話が載っています。
有力な群雄が並び立つ戦乱の乱世では、誰に仕えるべきかは最重要で、自身の才能を発揮し手柄を立て碌を与えられるどころか、逆に自分の命さえ失いかねないわけです。
しかし、魯粛は少し変わった男でした。
彼は、裕福な豪族の家に生まれましたが、財産に興味がないのか、施しを盛んにし、やがて家業を放り出し、財産を投げ打ってまで困っている人を助け、地方の名士と交友を結びます。また、乱世が深まると剣術・馬術・弓術などを習い、私兵を集め狩猟を行い、兵法の習得や軍事の訓練に力を入れます。家人は彼の奇行を嘆きます。
そんな時、名門の出である周瑜が居巣県の長となり、わざわざ魯粛の元に挨拶に赴き、同時に資金や食料の援助を求めました。この時、魯粛は持っている2つの倉の内の1つをそっくり差し出します。周瑜は魯粛の非凡さを認め、これをきっかけに親交を深めました。

魯粛には、大業を成したいという志があり、私兵を伴って袁術という者に請われ配下となりますが、袁術の支離滅裂な行状に見切りをつけ、別の誰に仕えるべきかを迷っていたとき、後に呉国の名将で「美周郎(男前で優秀)」とあだ名された周瑜が、この言葉を使いながら是非とも孫権(呉の初代皇帝)に仕えるよう勧めます。
「君が臣を択ぶのみにあらず、臣もまた君を択ぶ」と周瑜は弟分の魯粛に述べます。主君が誰を選ぶかは知らないが、お前が見る目があるんだったら誰を選ぶんだろうね、といった意味合いとなるでしょうか。どうだい自分の目で確かめてみろよ、と兄貴分として勧めているのです。

魯粛が孫権に初めて謁見した時、孫権は彼を大いに気に入ります。彼を見いだした周瑜は赤壁の戦い後、36歳で若くして遠征準備中に急逝します。周瑜亡き後、魯粛が呉を代わって支えることになる有能な知略と武略に長けた軍師となりました。

「君が臣を択ぶのみにあらず、臣もまた君を択ぶ」という言葉を虚心坦懐に眺めてみると、構造主義的な方法論的思考がシンプルに表現されているように思えてなりません。
君臣関係の構造とはその君主と臣下との要素間の関係性を相対的に整理統合することでその対象を理解しようとするものでしょう。
往々にして主従関係は、日本の江戸時代のように家督継承と家長制度によって定められていたように思われがちですが、実はここに大きな誤解があります。時代が変わって戦乱の世となれば、実力が大いにものをいうことになります。この言葉が盛んに語られた時代背景、さらに君主という変数Xと臣下という変数Yとの関係性をそれぞれの要素間の個別の事情や背景から分解し探っていくことも可能でしょう。変数XとYとの互いのベクトルが交わるところに主従関係が成り立つわけですから。国取り物語は、往々にして一国一城の主の技量ばかりに話題が集約しがちですが、他方では、国の命運を握る軍師など有能人士の国主選択の物語でもあります。

この言葉は、現代の雇用関係のなかでも有効のように思えます。特に、上司と部下の関係のなかで瞠目する人もあろうかと思われますが、大きな誤解があります。
この言葉は、例えば下克上の風潮がある乱世のような一時期に唱えられます。平時の、ましては現行の賃金制度のもとでの雇用関係ではほとんど有効性がありません。そんな言葉を上司に投げかけた瞬間「じゃ、会社を辞めれば」と言われるのが落ちです。建前上、被雇用者側にも選択権があるように思われますが、本音では一方的に選択されているに過ぎません。現代の雇用関係は、戦国時代や下克上の乱世以上に不自由だともいえるでしょう。
本当に実力のある被雇用者のみが、雇用交渉の場で多少の優位な雇用条件を提示できるのみです。

優秀な中国人就職希望者ほど、期待された役目のなかで120%の力を発揮し正当な評価が与えられるよう努力を惜しみません。しばしば高い目標を掲げ、自らのスキルアップに熱意を持って真剣に取り組むといわれています。人脈作りにも抜かりがありません。しかし、これはなにも中国人に限ったことではありません。万国共通の有能な人材にある傾向と言えます。
ですが、ことさら中国の有能人材に言われているのが、自らのスキルアップと仕事のやりがいと高評価にしか興味を示さないために、部下の育成や年功序列的な組織機構に馴染もうとしない、という傾向です。
また、トップを目指す場合は、転職を繰り返しながらキャリアを積み重ね、最終的に起業の道を選ぶ人も多く存在します。

したがって、スキルアップに熱心でない者だけが組織のなかに温々と居座ることになります。しかし、両者双方とも、組織のなかでは要求水準はそれなりに高いのがお決まりで、果たして「有能人材」なのか「ぶら下がり人材」なのか、仕事を任せてみなければ分かりません。

分をわきまえて、補佐役に徹し、大きな庇護のもとでの一国一城の主の忠実な軍師となるような人材なんていう日本人の望む中国人人材は、やはり滅多なことでは出会えないのも事実です。
                                  56「有能な臣下の条件」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/06/09