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中国名言と株式紀行(小林 章)

第108回 四000年を学ぶ中国名言/「濫吹男、高給にて迎えられる」

『木に縁(よ)りて魚を求む(縁木而求魚)』
                               出典【『孟子』梁恵王章句・上】
[要旨]見当違いのやり方では目的を達成できないことの喩え。
孟子が斉の国の宣王に言った言葉です。
分かり易く言えば「魚は水中にすむものだから、木に登って魚を探しても得られない」ということです。転じて、手段を誤れば、何かを得ようとしても得られないこと。また、見当違いで実現不可能な望みを持つこと自体をいいます。

斉は東方の大国で、先代の威王の治政に勢力を拡大し、西の秦、南の楚とともに、戦国有力諸侯の一つとなっていました。また、宣王もなかなかの器量人であり、一家言を持つ遊説家を招き優遇したことでも有名で、孟子はそこに魅力を感じて斉に赴きました。
しかし、当時の時代の求めるものは、孟子の説く仁義を重んじる王道政治ではなく、富国強兵の強兵策であり、政治外交交渉を駆使した強国・秦に対抗する他国(六国)との合従策や、秦と連合する連衡策などでした。

孟子は、口には出さないが、武力で天下統一を目論んでいた斉の宣王に、武力のみで天下を取るのは不可能だときっぱり指摘します。
「土地僻き秦楚を朝せしめ、中国に莅んで四夷を撫せんと欲するなり」(領土を拡張して、秦や楚の大国を朝貢に来させ、中国全土を支配して、西方の夷どもを従えようとなさるのでしょう)続けて「若き為す所を以て若き欲することろを求むるは、猶お木に縁りて魚を求むるがごときなり(以若所爲、求若所欲、猶縁木而求魚也)」とあります。

そうしたこれまでのやり方(=武力)で、野望を遂げようとなさるのはバカげてますよ、と孟子は言うわけです。目的(=天下統一)と手段(=武力)が合わないから不可能ですよ、と言いたいわけです。
それでも宣王は孟子に控えめに食い下がります。「そんなに無理なのか?」と。
孟子は答えます。「そのようなやり方(=武力)で、王の大望(=天下統一の覇者となる)を無理に達しようとなさるなら、兵にかり出される多くの民を損ない疲弊し国が滅びる大災難が待っているだけですよ、決して良い結果は得られません」と。
なお宣王は懐疑的で「そうなのか?」という顔ですが、続けて「その災難とはどんなものか?」と孟子に問います。
この何気ない質問が宣王のやぶ蛇となります。孟子は猛然かつ切々と「民を毀損することによる災難」について、延々宣王に講釈を始めることになります。

富国強兵策が優勢だった戦国時代にあって、いくら斉が強国でも武装能力の増強だけでは天下統一の覇者とはなれないでしょう。確かに孟子の説いた「民力」の充実も必要不可欠です。国の人口が減っていくようであるならば、農業生産は伸びず、税の徴収による道路などインフラの整備の他に国の守りを固めたり傭兵や戦費の捻出にも限界が生じます。手っ取り早い方法が、武力を駆使して他国を侵してその領土と領民を強引に奪い取ることですが、莫大な戦費がかかる上に多くの民兵がかり出され、また多くの犠牲者を覚悟する必要もあります。それは、民を泣かせ、民力の一時的な低下をもたらし、その回復に長い時間を必要とします。民力は国力のバロメーターでもあります。総合的な民力の充実と域内の治安の安定は、文化や経済活動を活発化させますから、他国からの人や物やお金の移動を誘引します。こうした交易による外資の流入も手伝ってますます国内の富は増強して、民力は増します。
ひいては国力の増強にも繋がるというわけです。
しかし、国力を堅固なものとするだけでは斉の宣王の抱く大望(=天下の覇者となる)は叶えられるはずもありません。国力を充実させながら、軍の規律と装備、戦略・戦術を磨き、領土も同時に拡大させていく必要があります。

孟子の説く「仁政によって、その徳を慕って有能な人材も農工民も、商人も、自ずと斉国に集まってくるようになる」という論理は、なんとなく憎めない考え方で、宣王の19年の治世で76名もの斉を訪れ宣王に拝謁した有能の遊説家たちが王より大夫に任じられ、立派な邸宅を与えられたといいます。そうした様子を見て、また数百・数千人もの遊説家が斉に到来し、斉の国では大いに学問が栄えます。さらに、工商も賑わい富国面では孟子の進言は一定の証明にはなった形です。この後、斉は強国・秦との連合する連衡策に傾き、秦以外の6国中唯一斉が生き残り、2強国時代を迎えることとなりますが、それも長くは続きませんでした。

また、この宣王には別の逸話が残っています。宣王は笛の一種である「う」という楽器の演奏が大好きで、300人もの演奏者を集めての大合奏を好んでいました。
そんな宣王のもとに、ある時「是非、楽団に加わり、王のために演奏したい」という男がやってきます。宣王はこの申し出に喜び、早速この男を楽団に加え、高給を与えて厚遇しました。ところが次王の代になった途端、男の姿が楽団から消え、行方が分からなくなってしまいます。新しい王は大合奏を好まず、一人ずつの独奏を好むことが知られていました。この男は、本当は「う」の演奏なんか出来なかったのです。大勢で合奏すれば、一人くらい「吹いているフリ」をしていてもばれなかったわけです。
これが「濫吹(らんすい)」の語源となりました。すなわち「濫吹」の意味は「無能な者が才能があるようによそおうこと。実力のない者が地位についていること」です。
中国ではこうした逸話を「故事(くーしぃ)」といいます。ひとつ目の「故事」からは、弱肉強食の戦国時代にあって宣王という王はなかなかに憎めないひとでした。

考えてみれば、こうした指導者を冠に頂く組織の方が配下の下々の者は仕事がやりやすかったでしょう。そしたところに、また「濫吹男」のような者がまぎれ込む余地もありました。

これに対して宣王の先代の威王は文武両道に優れた王として讃えられますが、変わり者で、即位の後の9年間は酒宴にふけり無為に過ごし、隣国からの攻めにも何もせず領土は縮小しても、政治には関心を示さないフリを通しました。
ここで二つ目の「故事」が出てきます。
ある時、淳于髡と言う者が威王に次のように謎をかけました。
「わが国には大鳥がいて、王庭にとどまっておりますが、この3年間鳴くことも飛ぶこともしません。この大鳥はなんでしょうか?」と。これに威王は「この大鳥は、飛ばねばそれきりだが、ひとたび飛べば天上まで飛び上がるだろう。また、鳴かなければそれきりだが、ひとたび鳴けば人々を驚かすだろう」と返答します。
これを境に、威王は人が変わったように政務に励むようになり、72人の大夫を呼び出して功績のあるものは褒章し、怠けていたものは処刑しました。
威王の即位後9年間の無為の時は周りの人材を見極め、他国あるいは悪役人たちを油断させるためのものであったといわれています。このことから「鳴かず飛ばず」の故事成語ができたと言われています。
威王は無為を託(かこ)ち、雌伏の時を過ごす間に、自分の72人の側近から大夫(地方長官)に至るまで、相手を油断させて人材観察を怠らず「鳴かず飛ばず」の「故事」にある覚醒の後に、人物を厳しく吟味したのでした。

この両王の治世に斉は全盛期を迎えたといいますが、二人の親子王の性格は二つの「故事」から見れば正反対であったように思えます。
                            54「濫吹男、高給にて迎えられる」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/06/01