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中国名言と株式紀行(小林 章)

第104回 四000年を学ぶ中国名言/「政商の成り立つ土壌」

『奇貨居(お)くべし(奇貨可居)』
                                 出典【『史記』呂不韋列伝】
[要旨]絶好のチャンスはうまく利用すべき、とのたとえ。
「奇貨」とは、珍しい品物、掘り出し物のことと解説が付いていますが、あらためて辞書を引いてみると「1、珍しい品物。2、利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会」とあります。「居く」はストックすることで、珍品を買って貯蔵し、高値になったのを見計らって売るべき、との原義の解釈が付いています。
「奇貨」を「滅多にない機会。特に、一見、不利ないし無意味な機会であるが、使いようによっては、利益をもたらすもの」と解釈すれば、さらに、得がたい好機は逃さず上手く利用しなければならない、との広義での解釈が可能です。

この「奇貨」と見なされているのは、中国戦国時代に趙の国に人質として出されていた秦の太子(昭王の次子)・安国君の側室の子である子楚です。また、この子楚のことを知って、この言葉を述べたとされる人物が後に大商人で秦の丞相となる呂不韋です。

出典の由来は、少し長くなりますが、ざっと以下のような物語となります。
子楚は幼少時は異人と名乗り、戦国時代の秦の第28代君主・昭襄王の代に、太子・安国君(後の29代君主・孝文王)の庶子(正妻の嫡子に対する側室などの子)として生まれました。安国君には20人以上の子があった上、さらに母の夏姫が安国君から寵愛を失っており、異人自身が王位を継げる可能性は極めて低かったようです。また、当時の秦は隣接する趙と常に対立しており、その関係は日増しに悪化していました。その趙に異人を休戦協定の人質として捨て駒のごとく差し出すことは秦にとっては彼は死んでも惜しくない立場でもありました。そのために異人は監視され、その待遇は悪く、日々の生活費にも事欠くほどであり、普段からみずぼらしい身なりをしていたといわれています。
それを趙の都・邯鄲で偶然目にしたのが、すでに大商人であった呂不韋です。

呂不韋は衛の濮陽の人で、商人(商賈)の二子として生まれ、若い頃より各国を渡り歩き商売で富を築いたといわれています。
この時、呂不韋が放った言葉が「此奇貨可居」(これ奇貨なり、居くべし)だといわれています。また、急ぎ韓の陽翟に帰った呂不韋は、このことを自分の父と相談します。この時、父に「奇貨居くべし」と言ったとされます。さて、真実はどちらでしょうか。

父との度重なる話し合いの結果、呂父子は将来のために異人(後の子楚)に投資することで結論がまとまり、やがて呂不韋は再び趙に赴き、公子の異人と初めて会見しました。

呂不韋は、この後、異人に多額の交際費を渡して趙の社交界で名を売る事をアドバイスし、自身は秦に入って安国君の正室である寵姫・華陽夫人のもとへ走ります。
呂不韋は華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人のことを実の母親のように慕って日々を送っていると吹き込みます。さらに華陽夫人に影響力を持つ実姉にも会って、高価な財宝を贈って彼女を動かし、この姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とすれば、高齢の安国君が無くなった場合でも異人から一生涯大切に処遇されるでしょうと説きます。華陽夫人は正室として安国君に寵愛されていましたが未だ子が無く「色を以て人に仕える者は、色衰えて愛弛む(色香を以て寵愛を受けている人は、容色が衰えればその愛を失うでしょう)」と諭され、このまま年を取ってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗ることにします。華陽夫人が安国君に頼み込み、安国君もこの話を承諾して、異人を自分の世子(太子)に立てることに決めます。
趙に戻った呂不韋が異人にこの吉報をもたらすと、異人は喜び呂不韋を後見とし、将来の厚遇を約束します。そして、養母となった華陽夫人が楚の出身だったので、これに因んで名を子楚と改めます。

子楚が安国君の太子になったのと前後して、子楚は呂不韋が連れてきた妾の芸者を気に入り、強引にもらい受けます。それが政(後の始皇帝)の母・趙姫(後の太后)で、その女は呂不韋とも関係を持っていて、呂不韋に対して子供を身ごもったと伝えていました。そのため、政の実父が呂不韋であるという説が『史記』でも取り上げられており、今でも噂が流布されています。そして、紀元前259年1月に男児「政」が誕生し、秦ではなく趙の首都・邯鄲で生まれたため、名を「趙政」とも呼ばれました。

紀元前252年、秦の昭襄王が死去し、安国君が即位して孝文王となり、子楚が太子となりますが、高齢の孝文王がわずか1年経たずに没し、子楚が荘襄王、呂不韋が丞相、義母の華陽夫人が華陽后から華陽太后、実母の夏姫を夏太后、政が太子となります。政が太子となると聞くと趙は驚き、政親子を秦に送り返しました。
呂不韋が秦の宰相として地位を得て、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられました。

荘襄王となった子楚は昭襄王・孝文王の政権を忠実に引き継ぎ、これまでの功臣をそのまま登用し、魏・韓・趙を攻め、東周を滅ぼすなど、秦の目覚ましい躍進を推進しますが、在位はわずか5年で没します。そして、政権を引き継いだのがまだ13歳と幼い太子の政で、天下統一を果たす、後の始皇帝です。

一方の主役・呂不韋は秦王政の治世となっても、相邦(廷臣の最高職、首相に相当する、後の相国と同じ)となり仲父(父に次ぐ尊称あるいはおじという意味)という称号を授けられ、彼の権勢はますます上がったといわれています。
この時期には、魏の信陵君、楚の春申君、趙の平原君、斉の孟嘗君などが、自らのもとに各地からの食客を集めて天下の名声を得ていたことに倣い、呂不韋はこれに対抗して3千人の食客を集め、呂不韋家の召使は1万人を超えたといわれています。近世ヨーロッパの宮廷のお抱えサロンのようなものでしょうが、この客の中に李斯がおり、その才能を見込んで王・政に推挙し、後に宰相として取り立てられることになります。
また、食客の知を結集して『呂氏春秋』という書物を編みました。十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇ですが、1年十二ヶ月を春夏秋冬に分けたことから『呂氏春秋』と呼ばれ、八覧から『呂覧』とも呼ばれます。その思想的内容は儒家・道家を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用されており、雑家の代表的書物であり、当時の天文など自然科学の知識が網羅された百科事典のようなものといわれています。故事ことわざ『一字千金』の由来ともなりました。呂不韋はこの書物の出来栄えを自慢して、都・咸陽の市の真ん中に置いて「一字でも減らすか増やすか出来る者には千金を与える」と公言したといいます。
呂不韋は晩年、嫪毐(ろうあい)事件への連座や多くの食客抱えるなど他国との交流もあり諸国と謀って反乱を企てるのではないかと秦王政から疑念を抱かれ、相邦を解任され蜀への流刑を言い渡されます。呂不韋は自らの末路を悟って絶望し、服毒自殺を遂げたとされています。

呂不韋は、商人(商賈)の家に生まれ若い頃から、中国各地を渡り歩き、安い時期に物資を買い込み、高くなる時期に売りさばくことで、莫大な資産を蓄え、韓の陽翟の街でも屈指の大商人となっていました。
中国では、古来商人は「商の国人(しょうひと)」という意味で、商は古代の国(王朝)名で殷とも呼ばれました。商(殷)王朝では貨幣経済が発達しており(子安貝が貨幣として流通していたといわれる)、商(殷)滅亡後は旧商(殷)人同士が他国に逃れた商(殷)人との間で生業として交易を行っていました。こうしたことから、商人は各地を渡り歩き、物を売る人、転じて、店舗を持たずに各地を渡り歩いて物を売っていた人を「あれは商の人間だ」と呼んだことから「商人」という言葉が生まれたとされています。いわば行商人です。実際は、商(殷)人の真似をして商行為(あきない)を行う人のことを「商人」と呼ぶようになります。

「商」に商業・商賈の意味がありますが、いずれも「商を生業とする」「商の売買をする」の意となります。また「賈(か)」は沽や估という漢字と同意ですが、賈人といえば広くは商人の意味になりますが、おもに「店を構えて商売(売買)を行う人」のことになるようです。
また、估(こ)は「估客」という言い方もあり、どちらかといえば「商人=行商人」に近いと思われます。現在中国語(簡体語)では估=価です。沽(こ)は『論語』でも孔子が弟子・子貢に「沽(うら)んかな、沽んかな」と述べたように「売り込む」という意味で、やはり広義の商売を表す言葉です。
商賈は広く各地の商業事情や産品の種類・価格などの情報のほかに、商売に関わる風習・慣行から国情・政治情勢なども足で歩いて見聞して知る立場にありました。いちばん諸国の事情に通じていたわけです。この時代、小賢く立ち回り取引しようと利にめざとい人を「賈豎(こじゅ)」などと商人の蔑称で呼ぶ場合もありました。「チッ、商人めが」といった用法でしょうか。お金で官位を買うようなことも横行していました。

やはり、古代中国でも優れた商売人は情報通でもあったのです。お金と情報を握る者は、権力の近くに居ることもできました。国の重要な執政に携わる宰相など要人の自宅には、必ず諸国を巡る有力商賈や估客が出入りし、商売だけでなく諸国の国情を教える役割も果たしていました。
中国に「政商」のような大商人が育ちやすい土壌や基盤がありました。
現在、中国で経営者の間で絶大な人気を博する清代末に活躍し「紅頂商人」と呼ばれ、わずか一代で莫大な富を築き上げた胡雪岩に連なる大商人の系譜は、呂不韋を嚆矢とする伝統が土壌として存在するのかも知れません。

「奇貨」とは、先に触れたように、珍品のほかに「滅多にない機会」「利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会」「一見、不利ないし無意味な機会であるが、使いようによっては、利益をもたらすもの」という意味です。
呂不韋のような成功した商人(商賈)にとって「奇貨」を見いだすことは、必ず次のステップに昇るための決定的な足がかりとなります。
求めて得られるものは、意外に少ないものですが、諦めることなく、たゆまずその時を待ち構えて準備を怠らないことが重要です。それに遭遇した時の呂不韋の躍起したであろう歓喜の姿を想像しますが、その後の決断と行動は素速く、対策は的確なものでした。まるでその時の訪れることを予感していたかのようです。
「此奇貨可居」といえる、その時がたれにもあるはずなのです。
                                 52「政商の成り立つ土壌」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/05/24