戸田ゼミ通信アーカイブ トップページ >> 中国名言と株式紀行(小林 章)

中国名言と株式紀行(小林 章)

第54回 四000年を学ぶ中国名言/「古典的経済学と新しい経済学」 

『沽らんかな、沽らんかな。われは賈を待つ者なり(沽之哉、沽之哉。我待賈者也)』
                                    出典【『論語』子罕篇】
[要旨]自分の真価を認めてくれる者には、喜んで仕えること。
高弟の一人子貢が、美しい玉石を孔子に喩えて「美しい玉があるとして、大事に仕舞い込んでおいた方がよいと思われますか、それとも良い買い手に恵まれれば売られますか」と問いました。孔子は躊躇無く「これを沽(う)らんかな、沽らんかな-」と答えます。
「沽」は売買するという意味で「沽券にかかわる」(面体、品位に関わる)の用法で使われることがありますが、元々「沽券」とは不動産の売渡証書、またはその証書の売値のこと。更に「賈(こ)」とは商人(一般に商家)のこと。孔子は自分からではなく、相手から買いたいと希求されれば売りますよ、と言いたいのです。「賈」とは、諸国を回って、物を仕入に行き、それをまた売り歩く商人のことで、それを、孔子は君主に見立てています。
孔子が仕官して国政の表舞台に出ることを切望していたことを知ることができる言葉です。爪を研ぎ、自分の実力を正しく評価してくれる為政者の出現を待ち望んでいましたが、ついには実現しませんでした。実際には、君主側からのお使いが来るのを待てず、諸国を巡って自分を売り歩いた孔子でしたが。

孔門十哲と呼ばれる高弟のなかで子貢は、特別に世才に長けた人でした。後に師の死後も喪に弟子達と3年、さらに延長して一人で計6年も服し孔子の墓の側で頑張ったほどです。また、のち2国に高官として仕官を果たし、引退後は『史記』貨殖列伝に名を連ねるほどの商才を発揮して富豪となったような人です。
その弟子を相手に、孔子が「沽らんかな-」「我は賈を待つ者だ」と応じたのには、子貢の商才を知悉し意識してのことであったのではないかと推察もできるのです。すなわち師弟の、この二人にして通じ合える対話ではなかったかと思うのです。しかも、孔子の方がわざわざ子貢の好みそうな話法で、冗談交じりに返しているようにも聞こえます。もし他の弟子が同様の質問をしても、孔子はこんな返答はしなかったのではないでしょうか。

一般に孔子は商売方面や金銭、富といったものには関心が無く、むしろ疎んじていたのではないかと思われがちです。
私もそれにほぼ異存はありません。しかしそれは、孔子の生きた当時が、個人のお金のことに多少無頓着であっても、人間関係にはあまり支障が無く、お金に関しては国家の権力者に、限られた富が集中しており、また国家の財政運営こそが重要であったからです。事実、孔子も国家のお金の扱い方については一家言を持っていました。

よく漢学者などで、孔子は貧乏を囲って生きているような高弟・顔回に、敬愛して止まなかったにも係わらず、親族から夭折時に要請された馬車や金品も送らなかったことなど、その貧乏振りにもかかわらず向学心をたぎらせる姿を褒め讃えこそすれ、その境遇を黙認し、金銭的援助を行わなかったことを悪しく言う人があります。しかし、それは孔子の生きた時代をそのまま現代と重ね合わせて見てしまっているからではないでしょうか。
ことほど左様に、現代ではすっかり、人間関係もお金尽くめで、国家財政のことも真面目に考えるような人が少なくなったがために、お金の多寡で人の価値を判断してしまったり、国庫財政には「入るを量りて以て出ずるを為す」の重要原則がないがしろにされてしまっているのではないかと思われるほどです。まあ、これも困った世の中です。

上記の如く、つらつらとお金のことを論じていますが、世の中にはおおよそ天下国家を論ずる経済学と、自分の財布の中を問題とする経済学の二つがあると、かつて邱永漢先生は仰いました。
この二つの経済学というのが、別々に存在し発展してきたわけではなく、もちろん関連があります。かつては、権力を持っている者がお金(富と呼んでもよい)と情報を独占的に所有し支配下に収めてきました。富としてのお金の総体が小さく、どちらかと言えば財産(不動産と動産)の比率が高かったのです。人は土地に縛られていました。
ところが次に、多額のお金を生み出す者が頭角を現し、その者に権力と情報が集中するようになったのです。限られた資産と人を有効に活用して付加価値を生み、新たなお金を創出して富の総体を増やしてきました。天下国家の財政よりも、価値の創造によって生み出された個人の持つお金の総体の方が膨らんでしまったのです。

したがって、学術の場で議論される古典的な経済学といえば、ごく最近まで天下国家を論ずる経済学とほぼ同一でした。そういう意味では、ごく最近の経済学理論全般まで含めて、私はあの退屈な「古典的経済学」と名づけてもよいのではないかと思っています。
自分の財布の中を問題にする経済学こそが、新しい経済学とは言えますまいか。是非、みなさんの議論百出をここに請う次第です。
                            27「古典的経済学と新しい経済学」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/02/13