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中国名言と株式紀行(小林 章)

第48回 四000年を学ぶ中国名言/「翼の折れたエンジェル」

『羽翼すでに成れり、動かし難し(羽翼已成、難動矣)』
                                  出典【『史記』留侯世家】
[要旨]世の大勢が整い、権威者といえどもそれを変える力がなくなったこと。
漢の高祖・劉邦は晩年美人の戚夫人を寵愛したため、彼女との間に生まれた子・如意を溺愛し、正夫人・呂后との間の子・盈との太子廃嫡問題にまで発展します。劉邦は太子である盈が柔弱であったため皇位の継承を躊躇っていた。戚夫人の甘言に乗り、正夫人との子・盈の太子を廃して、戚夫人との子・如意に帝位を継がせる腹を固める。
それを知った呂后は、知恵者の張良に相談し、劉邦の翻意を図るように依頼する。張良は一計を案じ、天下の四人の賢者を太子・盈の後ろ盾に据えることにした。もともと劉邦は天下統一後、この四賢者を政治顧問に招聘していたが、劉邦が怒りっぽい性格で「士を軽んじた」ので、嫌気がさし、賢者達は山に隠れてしまっていたのだ。張良は再び四賢人を説得して太子・盈の顧問として引っ張り出してきた。
ある宴席で、賢者らは太子・盈の側にはべり、劉邦に向かって「太子は、その人となりが仁孝、恭敬にして士を愛されます」と述べ、劉邦に無い太子・盈の美徳を持ち上げ、太子の為なら死んでもいいという世間の人々の声を聞いてわざわざ山を下りてきたのだという。劉邦も馬鹿ではないから、この言葉に人を信服させるのが力だけでないことを悟ったようだ。そして、戚夫人に上記の言葉(すでに太子には翼が生えそろった。もはやワシの力ではどうにもならんのだよ)を告げて、太子廃嫡問題は決着する。

権勢・権力にまつわる怨みは本当に怖い。この話の続きには、その怨みを晴らす壮絶な物語がある。『史記』の作者・司馬遷の筆は、こうした記述にリアリティを発揮する。
激しい怨みや怒りが歴史を突き動かす原動力になりうる程に力を持つのは疑いないが、『史記』の作者はこうした記述に長けているため、つい歴史が感情の動物によって紡がれて来たようにすら錯覚させる。思えば、作者自身、義に思いを馳せる高潔の士といえた。司馬遷は、太史令という宮廷の任にあり、同門として知遇のあった武将・李陵が僅かな兵で匈奴領内深くに侵攻し好戦したが匈奴軍に捕捉され、不幸な誤情報も伝わり、それまでの李陵の戦功を認めていた公卿王侯達が保身のため手の平を返すようにして非難・問責したとき、義憤から一人李陵を事実を伝えることで擁護した。為に、李陵許し難しとの武帝の怒りに触れて、えん罪ともいえる宮刑(去勢刑)に処せられる。屈辱と、生きながらにして死せる屍のような境遇で、司馬遷は史家としての事実を探る冷徹な目と義憤からの簡潔・的確・写実的な表現で、亡き父の遺言どおり歴史の記述に邁進したとされます。

司馬遷という人は、孔子の厚い信奉者であり、天文的な素養や業績もあり、旅行家としての歴史の実事に通じる行動家の側面も併せ持っていたといわれています。そうした実際家の側面が簡潔で的確、また写実的表現を生んでいるのではないでしょうか。
また、激しい怨みや怒り、悔恨の情、正義が成されないことへの嘆きなどの文中の表出は、司馬遷自身のえん罪や屈辱による抑えきれない部分が時として感情的表現として具象されているといえるのでしょうか。わかりませんが、いずれにしても、史書は感情や私怨を廃し客観的な事実のみを淡々と記すものだという高説には、私はどうしても与することができません。

中国CCTVなどで放映される現代ドラマなど眺めていると、激しい感情の表出が好んで取り入れられていることに気付きます。日本ではあまり好まれるパターンとはいえません。中国の女の人は激しいなァ、沸々たる感情を抑えることができないのだな、いざとなれば人前で卒倒さえも辞さないのだな、と勘違いしてしまいそうです。まあ、ドラマ性を高め、盛り上げる効果として、見るべきでしょう。

ドラマではなく、史実の続きの方ですが、高祖・劉邦が亡くなり、太子・盈が帝位に就きます。すると、呂后の戚夫人に対する報復行動が、待ってましたとばかりに始まります。呂后は、まず子・如意を殺害し、戚夫人には残虐な刑罰と辛い仕打ちを与えます。ウワー、夫人の両手両足を切り落とし、眼球をえぐり取り、耳を焼いて聞こえなくします。ウエー、さらに薬物を与え声帯を焼き潰します。ウオー、それでも飽き足らずに、夫人を便所に投げ込み、これを「人ブタ」と名付けて罵ったといいます。スミマセン、変な感嘆詞を思わず差し込んでしまいました。

母親・呂后の凄惨で止まることを知らない所行を目の当たりにして、心優しい子・盈(恵帝)はショックを受けます。一年以上も寝込んでしまったといいます。また、すっかり政治に嫌気がさして酒色に溺れ、若干14才の若さで死んでしまいます。もはや、誰の力でもどうにもすることもできなくなった、この可愛そうな「翼の折れたエンジェル」を、だれが悪く言えるでしょうか。
                                24「翼の折れたエンジェル」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/02/01