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中国名言と株式紀行(小林 章)

第40回 四000年を学ぶ中国名言/「親たちの華やかで光輝に満ちた一時期」

『殷鑑遠からず(殷鑑不遠)』
                                  出典【『詩経』大雅「蕩」】
[要旨]参考や自戒とすべき事例はすぐ身近にある。「人のふり見て我がふり直せ」の中国古典版というべきもの。殷は正式な国名が商であったので「商鑑遠からず」ともいう。
殷は先年までは中国最古の実在の王朝といわれていました。「鑑」は鏡のことで、つまり自分を映し出す手本のこと。つまり、殷が国を滅ぼさないために自戒とすべき見本は、何も遠くにあるわけではなく、直ぐ前代の夏の国にあるのではないか、との意味。
夏は先年までは神話時代の王朝と思われていました。しかし、近年の黄河流域河南省の二里頭遺跡の発掘調査で夏王朝中期以降の王城跡が確認され、実在の王朝であったことが確認されました。その夏は治水の業績に秀で聖天子と讃えられた禹が興したが、建国者は立派だったが、子々孫々人材に恵まれるというわけにもいかず、十六代目の暴君・桀が出るに及んで、殷の湯王に滅ぼされてしまう。「夏のようにはなるまい」と肝に銘じた殷ではあったが、この教訓は結局守り通すことはできなかった。毎夜「酒池肉林」の大宴会を催し、民には暴虐非道の限りを尽くした紂王の代に、周の武王によって倒されてしまう。
なお、蛇足で商業・商人の言葉の起源は、周に滅ぼされた殷(正式名が商)の遺民が、各地に分散した同族を対象に交易を始めたことに由来する。

俗に「歴史は繰り返される」とか「悲劇は繰り返される」といいます。どうも人間のやることは、似たり寄ったりで進歩など無いのだという人もいます。少し前だと、人間とは遺伝子という車に乗った乗客に過ぎない、との遺伝子決定論が一世を風靡しました。
いずれも、ひとの進歩やオリジナリティを否定するような論調で、所詮自分も親の跡をたどるだけの人生で、その性格を忠実に引き継ぎ、親の運命を繰り返しているコピーに過ぎないのか、と真剣に悩んだ青春の一時期がありました。
世の中、誇りと威厳を備え、天を見上げるような気高い立場の親ばかりでもないのです。

中国では、70后(70年代)以前の親は、戦乱の時代を経験したり、政治運動の混乱で苦労した人が多く、その反動からか、一人っ子政策で生まれた我が子に過度の期待をする傾向が顕著でした。私の知り合いや親しい人の家庭でも、その一人っ子への思いは過剰と思われました。彼らは日本製の高性能カメラやビデオ録画機を、収入にそぐわない高額であるにもかかわらず、買い求めようとしましたが、その理由は、自分の我が娘、我が息子の幼少時からの記録を残してやることでした。また、自分達は我慢してでも、我が子には躊躇無く高価な服や靴を与え、将来の学費のために少額でも貯金し、小学校から后門(裏門)のコネを使ってでも少しでも良い学校に通わせ、パソコンや高価な教材を買い与え、なるべく好きなものを食べさせたり買い与えたりしました。そして自分達は、稼げるよう日々のハードワークをこなし、普段は自分達の両親に我が子を預けて、何しろ子どもたちの将来のために人生をかけてきたのです。こうした家庭環境は、中国沿岸部の都市住民や地方や内陸部でも富裕な層の人たちに多かったのです。

一方、花よ蝶よと、ちやほやされて育てられた子ども達が、現在の80后や90后(80年代、90年代生まれ)です。両親の愛情もたっぷりでしたが、要求水準も高く、アメとムチの扱いでした。すなわち、目の前に差し出されるアメと、現実社会に触れた時の心理的な葛藤がムチのように降りかかってくる訳です。両親の指し示すレールの通りに従順に進路を取った結果、順風満帆にことの運んだ子ども達は恵まれていましたが、多くの子ども達は親の望む過剰な期待と現実の狭間でメゲそうになりました。挫折を経て、社会適応能力を磨き強くなった子ども達もいたでしょうが、親と共に巷間の狭間に身動き取れずに無為をかこった子達も多かったと思います。せっかく仕事に就いても、どこか投げやりで無気力と勘違いされてしまう、遅刻は日常茶飯事、無断欠勤しても言い訳が度を過ぎる、そのうち会社を辞めると言い出す、家にいても友達とタマに出かける程度で、部屋に籠もって食事の時に家族に顔を出す程度、再就職活動には理由を付けて消極的、精々専門学校にでも入ってモラトリアムを決め込もうとする、などなど。実際によくあるケースです。

これらは、世代間の大きな社会の環境変化が生んだ、軋みだったり、矛盾であるわけです。
自戒とすべき見本が、仮に自分の身に帰来する場面があったとしても、ひとは往々にしてそれが我が身を映し出す鏡であったといういうことに、後になって気付き「後悔先に立たず」てなものです。
中国人の、私と同世代の親達の様子を長年観察しながら、いつかは親の側も苦しむ場面も予想はできたことでした。同情を禁じ得なかった人も多かったということです。
花よ蝶よとちやほやして、必死で生活を切りつめてまでも、子どもの育て甲斐を実感できていた時期が、実は親たちの華と輝く時期であったと、あらためて思い返さざるを得ません。
                      20「親たちの華やかで光輝に満ちた一時期」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2013/01/16