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中国名言と株式紀行(小林 章)

第21回 四000年を学ぶ中国名言/「そのひとの才能に、胸キュンキュン」

『一貴一賤、交情見る(一貴一賤、交情見)』
                             出典【『唐詩選』駱賓王「帝京篇」】
[要旨]地位の高低や暮らしの貧富によって世人の付き合い方が変わること。また、それによって友情の真偽が分かること。
駱賓王は、初唐期の詩人で、女帝則天武后への討伐軍に参加し、打倒の檄文を書いた勇猛の詩人でもあったという。この詩句は『史記』汲鄭列伝中の漢武帝時代の司法長官であった翟公の逸話に材を取ったものであり、要職にあった時は訪問者がひきもきらなかったが、罷免されたとたんに人足は途絶え、家の門前には雀が出入りするばかりの寂(さび)れよう。ところが、程なくして元の職に返り咲くと、再び人々が押し寄せようとしたので、門前に看板を掲げて上記の詩句を記したとされる。

ひとは「富貴」に押しかけ「貧賤」と見るや逃げ水のようにサッと引く、そんな消変し易い友情というものは、薄情でしかない。真の友情とは一死一生のものであり、一貧一富に態度は左右されない。そうあるべきだという義憤にかられ、そうでありたいという願望が込められているのです。

職業に貴賤の別はないといいます。男女にも、人間の肌の色にも、社会的地位や階層においても、身に付いた銭の多寡にも貴賤の差はありません。
これは、いずれも世法の前での真理ではあるでしょうが、世の中はひねくれたもので、たとえば金銭について「お金があれば貴く、貧しければ賤しい」と信ずる人は必ず多数派であるのも事実です。
または逆の組み合わせで「富」ではあるが「賤」でもあるという残念な人もあれば、世の中には希に「貧」ではあるが「貴」くもあるという人がいますが、いずれも少数派に違いありません。

思えば「富貴」にはひとを近づける特性が、また「貧賤」にはひとを遠ざけるという特性が認められます。どうして、ひとを「+」の力で引き寄せたり、はたまた「-」の力で引き離したりするのでしょうか?不思議です。

そもそも「富貴」に伴う財産を羨んで、ひとは引き寄せられると思われがちです。その人の財産とは財宝であったり、高額紙幣の束であったり、土地建物であったり、価値ある有価証券のようなものであると思われがちですが、実は財宝、紙幣、不動産、有価債権を産み出したり、引き寄せて手にすることのできる、その人の能力や器にこそ価値があるのです。

私はこのことを、邱永漢氏の著作によって開啓させられたのですが、知ってしまって少なからぬ衝撃がありました。財宝や紙幣は所詮ただのモノです。それ自体には増殖する能力はなく、時と共に失われていく性質のモノだと、財産とは本当はそれを産んだり増殖させたりする、その人の「能力」のことだと知ったのです。ひとの能力であれば、学び習得も可能であると。

理財の才能ある人は、今たまたま無一文であったとしても、中国に「めんどりを借りて卵を産ませる」という諺にあるとおり、他人から雌鳥を借りてでも財を成すことは難しいことではありません。

しかし、ひとの才能とは、生まれ持ったものと後天的に学んで身に付いたものを併せ含めるもので、後天的なものにばかり寄りかかっていては、片翼飛行となりバランスが悪いものです。しかし、トレーニングで鍛えて獲得できるのは片面だけではあるのですが。

してみると、ひとが「富貴」に押し寄せるのは、本当はその財産を羨んでのことではなく、その財産を産み出し、その財産を引き寄せている、その人の才能を羨んでのことではないでしょうか。仮に、その人の財宝を首尾良く盗蔵できたとしても、それを金銭に換え、使い果たしてしまえば、それでもうおしまいです。理由は、財産はいわば、その才能というソフトウエアが生み出した単なるハードウエアに過ぎないからなのです。
ひとは「富貴」を産蔵する才能に引き寄せられ「貧賤」に甘んじるその根性から遠ざかりたいのではあるまいか、と思うのです。
                        11「そのひとの才能に、胸キュンキュン」

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。 

2012/12/11