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中国名言と株式紀行(小林 章)

第9回 四000年を学ぶ中国名言/「高潔の士は、砂漠の中のダイヤモンド」

『羮に懲りて膾を吹く(懲羮而吹膾)』
                               出典【『楚辞』九章・惜誦篇】
[要旨]一度失敗したことに懲りて、以後過剰ともいえる警戒心を抱くこと。羮(こう=あつもの)は肉や野菜を煮込んだ熱々のスープのことで、飲んで口に火傷し、それ以降は膾(かい=なます)のようなもの[肉や魚の生片]にもフーフー息を吹きかけ、冷ましてからでないと口にしない程の用心深さをいう。

戦国時代の楚の詩人・政治家であった屈原の詩が元であり、そこには彼の、謹厳実直の高潔の士であったが、その正義感と直言のために周囲から疎んじられ、孤立の果てに朝廷から放逐された無念の思いが綴られているといいます。屈原は志をついに変えることができず、憂国の思いを抱きつつ大河の淵に身を投じ、死をもって孤高を貫きます。

屈原の孤高の高潔さが、様々な妥協に対して、この諺のように、常に慎重な態度を取らせたために、悲劇を生んだのだと解釈されます。
いつの時代でも、世に馴染まず、清濁併せ呑むような度量の広さを持ち合わせない人は、組織の出世街道からは弾き出されてしまいます。

逆に、度量の広さや豪胆さとはほど遠い見て見ぬふり、失敗も他人の責任だと押し通し素直に認めようとしない、他人の成果の足を引っ張る事で自分の成果の方をプラスに見せようとする、最低でもプラスマイナスゼロには持ち込む、とにかく自分の手柄を強調する、尤もらしい言い訳が多い--等々、策を弄することが大人(たいじん)の条件と見なされるようになってしまいました。そういう人が組織のなかでは出世してきたのです。

よく中国人の振る舞いを「麻雀」に喩える人があります。麻雀の醍醐味は「相互監視の中での遊び」という要素にあり、三方に目を配り、策を弄し、手よく読み、手段を尽くし、必要があれば牽制し、結局自分が上がれないならば、他の者にも上がらせない。
社会組織のなかに組み込まれて、埋没しそうで、自分が出し切れないならば、他の競合者を叩いてでも何とかイーブンに持ち込む。
しかし、世は移り変わり、現在は成果主義の世の中となり、さしたる実績がなければ、やはりトップの椅子も回っては来なくなりました。足の引っ張り合いだけでは、イスには届かないのです。

自己アッピールも他人の高成績には、かき消されてしまいがちです。どうしたら自分を売り込めるか、自己保身はどうすれば図れるのか、悩ましいばかりです。
古来の賢者のように、爪を磨いて待てば、向こうから使者やお迎えがやってくる時代ではなくなってしまったのです。

逆に、こうした世の中にあって、高潔の士は、その希少さゆえに、砂漠の中でもキラリと光る宝石粒でもあるのです。生活術に長けておれば、それほど遁(とん)世を決め込むこともないでしょう。
                        5「高潔の士は、砂漠の中のダイヤモンド」

 

注)この名言は、邱永漢監修『四000年を学ぶ中国名言読本』(講談社)より抜粋させていただいております。

2012/11/17