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散歩しながら(ぼうちゃん)

第85回 どうしようもない

なんかよく分からないと思ったら、
分かったふりをしないで、

分からないって思っていればよいと思います。
そこでいいことを言おうとすると、たいてい間違う。

余程の先見力のある人ならともかく
凡人の私のような人間が分かったような顔して

したり顔して何事かを語るのは
恥ずかしいし、ろくなことはないと思います。

 

散歩しながら、
あるいは寝床の中で

ふいに過去のことを思い出すと
若い自分が分かったような顔をして喋っています。

そんなとき、
ギャッと叫んで

寝床の中で布団を被って寝てしまいたい。
何であんな恥ずかしいことをしたのか

悔やんでみても取り返しは付かないけれど
出来ることならその場に行って

その時の生意気な
我が袖を引っ張ってやりたい。

 

世界中のあらゆる小説の
書きたいテーマはといったら、

自分とは何か、
ということでしょうが、

人間というのはどうしようもないものだ
ということでもあると思います。

 

落語は人間の業(ごう)を語るものですが、
文学もまさに人間の業を認めて描き出すものだと思います。

どうしようもなくみっともない
若いときの自分が恥ずかしく思いますが

落語も文学も
私の仕様もない業を認めてくれます。


その世界で学んだことは
矛盾するようですが沈黙なのです。

人は誰でも、誰にもいわない言葉を持っています。
つまり沈黙するということ。


沈黙も立派な言葉なんですから、
よく分からなかったら黙っているのが一番良い。

恥ずかしいことでも何でもないよと
文学から教わったと思います。

沈黙に対する想像力が身についたら、
本当の意味で大人になれるってことを

意識していれば大筋のところは
間違いないのではないでしょうか。


若いときそのことが分かっていればなあと
深く溜息をつくのですが

これも歳をある程度取らないと分からない
ことなのかも知れません。

 

小説「坊っちゃん」は
相手にうまく伝わらない、
誰ともわかちあえない
どうしようもない
その気持ちや
漱石が背負っていたもろもろの悲劇
みたいなものが全部出ている気がします。

「清(きよ)のことを忘れていた。
――俺が東京へ着いて下宿へも行かず、皮鞄(かばん)を
提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、
あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと
涙をぽたぽたと落とした。
おれも余りに嬉しかったから、
もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだといった。

その後ある人の周旋で技手になった。
月給は二十五円で、家賃は六円だ。
清は玄関付きの家でなくっても
至極(しごく)満足のようであったが、
気の毒な事に今年の二月肺炎に罹(かか)って死んでしまった。
死ぬ前日おれを呼んで
坊っちゃん後生だから清が死んだら、
坊っちゃんの御寺へ埋めて下さい。
お墓のなかで坊ちゃんの来るのを
楽しみに待っておりますといった。

だから清の墓は小日向(こびなた)の養源寺にある」。

 

この小説のなかの
「清」は安らぎの象徴です。

そしてとても強引ですが
「清」は沈黙の象徴でもあると考えています。

2011/10/12